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「た…助かりました。すみません」
そう言って体勢を立て直すが、オレをしっかりと抱きしめる手は緩もうとはしなかった。布越しに伝わってくる懐かしい体温に涙腺が緩みかけ、急いで離れようと身を捩る。
「あの…っ手を…」
回された手にもう一度、ぎゅっと力を入れてから佐藤は体を離した。
「……すまない。さあ、お姉さんが待ってるよ、なかなか入ってこないから心配してた」
感触の残る体が熱かった。
「大きなマンションだから、びっくりして…きょろきょろしてました。新しくて、綺麗ですね」
「圭吾君のアパートはレトロだったからね」
思わず、立ち止まる。
「…え?」
それに気付かない佐藤は、エレベーターの中でこちらを振り返り、怪訝な表情を見せた。
「今…」
西宮はオレが以前住んでいたアパートを知らない。
知っているのは、佐藤だけだ。
どう言う事か分からず、息を詰めた胸に咄嗟に手を当てる。
雨の中濡れないようにと大事に持ってきたケーキの袋が、けたたましい音を立てて大理石の床に落ちた。
「圭吾君!?」
駆け寄った佐藤が膝を折り、オレの顔を覗き込む。
オレは、本当に佐藤の中にオレがいるのかいないのか確かめたくなくて、その目を見つめる事ができないまま、小さく「何でもないです」と口にした。
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