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「山に登って、事故に遭ったんだ」
なぜかこちらを向いてしかつめらしい顔でそう言う父に、記憶のないオレは違和感を感じながらも頷くしか出来ない。
何か言いた気な母は、父に睨まれて口を閉ざしていた。
「山…ですか?」
ネットが外され、ガーゼとテープだけになったこめかみの傷にそっと触れる。
「そうだ。山だ」
どこの山で事故に遭ったのか聞こうとする前に、父が重々しく口を開いた。
「河原のお嬢さんとの見合いの事は、覚えてるか?」
「いえ、でもオレ付き合ってる彼女が…」
近頃上手く行ってはなかったが、交際相手には違いない。その顔をぼんやりと思い浮かべながら慌ててそう言うと、両親は顔を見合わせて頷いた。
「別れたのよ?もう…4ヶ月くらいかしら?」
「え!?」
見舞いにも来ない程仲が冷めていたのかと思っていたが、それ以上の事があったらしい。とは言え、二人の間に流れ始めた寒々しい空気の事を考えれば、その方が幸せだったに違いない。
「覚えてないだろうが…河原のお嬢さんと見合いをしたんだ。もう何度も会っている…」
何かを含めたかの様な父の語尾に、苦笑しながら肩をすくめる。
「結婚の話が進んでるんですか?」
父が、はっと目を見張ってから頷いた。
「そうだ。向こうも乗り気でな、断る事はできん」
「…結婚前提でお付き合いしてたんなら、気にしませんよ。ただ、覚えてないなんて言ったら、不興を買うかもしれないですけど」
「それはこちらから話す」
急に顔を生き生きとさせ、父は肩に荷が下りたように嬉しそうに笑う。母だけが、そんな父の後ろで何か言いたげだったのが気にかかり、父に気付かれないように視線を送ってみたが、小さく首を振り返された。
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