86 / 312

9

「姉は中にいますから…俺、これで失礼しますっ」  後退りながらそう言い、その場を離れようとした彼を捕まえる。  見たままの細い腕は、掴むと指が回ってしまう程だった。 「待って!時間作ってきたんだ。どうせなら三人で冷たい物でもどうかな?」  作れた時間なんて知れていた。可能ならば今すぐにでも会社に戻り、同僚に押し付けてきた仕事をこなしてしまいたかった。  けれど…  こちらを睨み上げる彼の事が気にかかって仕方がなかった。  このまま彼を帰してしまいたくなかった。  結婚相手の弟と仲良くしておこうと言う気持ちとは、また少し違う気もする。 「…あ」  睨まれていた目が揺らぎ、その視線がオレのこめかみに注がれているのに気付いて苦笑する。  少し髪を伸ばして、分かりにくくしたつもりだったのだけれど… 「この傷が気になるかい?山で怪我したらしいんだ」 「…らしい?」  男の傷なんて面白い話でもないだろうに、彼はそう呟いて左手を伸ばそうとした。  その手に、残念な物を見つける。  ほっそりとした形のいい手に、オレのこめかみ同様に残ってしまっている傷の痕。  痛々しいそれがやけに目につく。 「怪我のせいで記憶があやふやなんでね。両親からそう言われたんだ」  そう言うと、彼はパチパチと目を瞬かせてから、癖なのか左手に嵌められている指輪を弄り出し、逸らした視線をためらいがちにこちらへと向けた。  何かを考えているようなその態度に、何を言われるのかと覚悟をしていると、 「山、好きなんですか?」 「え?ああ、夏山だけだけどね。興味あるの?」 「あるんですけど、何から始めていいか分からなくて。誰かに教わりたいなって思ってたんです。話聞かせてもらってもいいですか?」  彼の興味が引けた事が嬉しくて、オレは二つ返事で答えた。

ともだちにシェアしよう!