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「―――――え」
ぐらりと回る視界から体を守るためにその場に腰を下ろす。
早鐘のように煩くなる心臓の音で母親の言葉を聞き間違えたのではないだろうかと秋良はその音を鎮める為に息を止めた。
「……」
『え、じゃないわよ!向こうのお母様から聞いてびっくりしたわ!そう言う事はもっと早く言っておいてくれないと!!』
母の咎める声もどこか明るい。
『つわりが酷いみたいね、向こうのお母様が良くして下さるでしょうけど、貴方もしっかりするのよ?お父さんになるんだから!』
「俺がお父さん」…と秋良の口中で囁くような言葉が漏れる。
呻き声のようなそれは、けれど台所に座り込む圭吾の耳にもしっかりと届いた。
『お父さんなんて気が早いかしら?うぅん、今ぐらいから心構えしておいた方がいいわよね!』
その後一方的に赤ちゃん用品の用意の事を話し、やはりまだ早い、こちらに来てからゆっくり相談しましょうと告げて電話は切られた。
ぷつん…と音の途絶えた携帯電話を見やる。
明るく光を灯していたそれが暗くなる頃、圭吾がふらりと立ち上がり、引き戸に手を突いた。
「…姉さん………子供……できたの?」
その言葉に秋良の肩が跳ね上がる。
振り返ったその先にある強気な猫のような瞳は、今は何の表情も映さずに秋良をただ見下ろしているだけだった。
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