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第10話

 止めることなど出来なかった。   憑かれたように女の人は家の奥へと飛び込んでいく。  男の名前を叫びながら。  彼は恐ろしい者を家にいれてしまったことを悟り、泣きながら追いかけていく。  寝室のドアが開かれ、女の姿に固まる男と、呆れたように笑う母親はなにも着ていない。   母親の肌が開いたドアのむこうで光る。  女が開いたドアの前で言葉にならない声を叫んだ。  男は凍りつき、母はため息をついた。  女の目は怒りに見開かれた。  唇がつりあがり、歯が剥き出しになった。  鬼。  鬼。  彼は恐怖で動けない。  女の人か目の前で鬼になった。  薄い皮膚の下で渦巻いていた感情が今吹き出そうとしている。  「連れて帰って。もういらんわ。こんなん」  母親は平然と言い捨てた。  止めてや母さん。  そう思った。  母さんにはあれが見えへんの?  彼には見えた。  何かが女の人の身体の中であばれていて、それが外へ飛び出そうとしている。  ドロドロのそれか皮膚の下で蠢くのを皮膚の向こうにあるのを彼は見た。  キシャァ!!  女の叫びはもう人間のものではなかった。  女はハンドバッグからそれを取り出した。  それは包丁だった。  彼は恐怖に叫んだ。  叫びながら、それでも母親を救おうと女に飛びついたが、ものすごい力で蹴飛ばされ壁に叩きつけられた。  狂気は凄まじい力だった。  母親がやっと現状を理解したのは腹に刃が食い込んだ時だったかもしれない。  馬乗りになり何度も刺された。  全裸の男が引き剥がそうとしたが、女の力は凄まじく止まらない。  女は母親の顔にも刃を突き立てた。  この顔が  この顔がこの顔なんか  ウチの旦那をよくも     何度も何度も。  罵りながら。    彼はずるずると壁にもたれた。  母が絶命するのを、ずっとみていた。  「オレは自分の顔が嫌いや。あの日の母親の顔が見えるんや自分の顔に。だからオレの顔がこうなって安心しとる」  彼は言った。  床に崩れるソイツへむかって。  母親は殺された。  女は刑務所に。  男はどこかで生きているだろう。  父親は男にどんな謝罪も求めなかったから。  父親の怒りは今も裏切った母親にのみある。  だから。  この顔で生きるのはつらかった。  日に日に母親に似るのがつらかった。    「オレを見て」  彼は言う。  今なら大丈夫だとわかっていたから。    アイツが首を振る。     子供みたいに。    「見てや」  彼は優しく言った。  怯えたようにアイツが顔をあげた。  コイツの顔を見るのも・・・久しぶりだと思った。  コイツが彼をみないようにしてくれたから。  結果彼もコイツを見なかった。  不敵なはずの真っ黒な目も、いつも小ばかにした笑いを浮かべている太い唇も。  今は傷ついた子供みたいに見えた。  ああ、まだ子供なんや。  オレ達は。  綺麗な目やな。  涙をこぼすその目が今は怖くなかった。  その目に写る自分が見えることはない。  「お前もオレの顔が好きやったんやろ?もうなくなったで?」  彼は唇だけで微笑む。  それは単なる事実確認だった。  「俺は俺は!!」  アイツは何か言おうとして言えない。  でも彼の目を見つめることを止めようとしない。  「先輩をな、責めんといて。オレの顔が悪いんや。オレはええねん。やっと自由になれてん」  彼は心から言った。  上級生は彼が自分でやらなければならなかったことを代わりにしてくれただけだ。  自分で切り刻むべきだった。  こんな顔。  なんて醜いのだろう。  人の欲望を煽り立てるだけなんて。  「ちゃう。ちゃうんや・・・俺は!!」   床を叩いてアイツが泣いた。  言葉に出来ない何かに苦しみながら。  「気にせんで」  彼は心から言った。  最初は怖かったし、無理やりされたことを忘れていない。  でも、全部が嫌じゃなかった。  今思えば。  母親は男と肌はあわせても、自分を抱きしめてくれなかった。  父親は不器用に愛してくれて、抱きしめたりはしなかったし、母親がああなってからは自分とは距離を置いている。    背中から抱きしめられて、大切なものみたいに扱われるのは嫌じゃなかった。  本当は。  誰かに愛されているみたいで。  もう誰ともいられないと思っていたのに。  「ええんや。全部」  彼は許した。  全て。  アイツは言葉を無くして膝を抱えて泣いていた。  それを彼は優しい気持ちで見ていた。  ずっと。  ソイツとはそれから会うことはなかった。  連絡がやっとついて駆けつけてきた父親にソイツは叩き出された。  彼の制止の声を聞かず父親はソイツを殴りつけた。  ソイツは黙って殴られ続けた。  警備員がかけつけるまで。      部屋を引きずるように出される時のソイツ目が忘れられない。  焼け付くように彼の瞳を見ていた。  鼻血に汚れた顔が、やはり子供みたいに歪んだ。  父親は彼を抱きしめて泣いた。  物心ついていらいそんな風に抱きしめられたことはなかった。  でも父親は自分を愛してくれていたのだと知った。  母親と同じ顔だけが、ふたりを遠ざけていたのだ。  いまはもうそれがない。  彼は嬉しいと思った。    そこからは早かった。  父親は会社を辞めた。   引っ越しした。  田舎へ。    父親の親族がいるという。    「もうそっと生きていこう。二人で」  父親の言葉に頷いた。  嬉しかった。    でも、どこか穴が空いたような気持ちになった。  アイツがくれた本は返せなかった。    返さないといけないと思ったのに。  アイツからはそれから何の接触もなかった。     彼がそうであるように、アイツも見張られて行動を制限されているのだろう。  アイツは有力政治家の息子だから。  親同士がどんな話をしたのかは知らない。    もう一度会いたかった。  そう思っている自分が不思議だった。          

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