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第11話
彼は作業をやめて、休憩することにした。
今回の仕事はなかなか難しい注文だったけれど、納得のできるものができあがりそうだ。
彼は作業部屋を出て台所でコーヒーを淹れる。
作業部屋以外では台所で寛いでいる。
テーブルの上には受注を受けるためのノートパソコンがある。
テーブルの上に置いてあるのは、美しい本だ。
ずっと持っていて、毎日ながめて撫でている。
本来は手袋で触れ、ケースにしまうべきものなのだろう。
でも。
触れたかった。
皮の表紙を撫でてしまう。
もちろんそっと。
大切なものだから。
抱きしめていることもある。
この本が彼の人生を決めた。
彼は今、本を装飾する仕事をしている。
持ち込まれた本に皮の表紙をつけ、文字や模様を描き、特別な一冊にするのが彼の仕事だ。
決してやすくはない値段を客は払うので、沢山の客を扱っているわけではないけれど、まぁ、一人生きていく分には十分すぎるくらいだ。
口コミで客は広がり、今は一年待ちになっている。
特別にしたい一冊がある人達がいて、その人達はその本を愛してるのだ。
そういうのが彼は好きだ。
少年時代、「誰にも会わずに生きていきたい」そう思っていた理想に近いのかな、彼は笑う。
でも、今は誰からも隠れたいわけではないのだけど。
彼は髪をかきあげる。
のびた。
切りにいかなければ。
今日は作業は終わりにして、買い物と散髪に行くことにした。
台所の端にある鏡に自分を映して身支度をととのえる。
まあ、作業着はヨレヨレだけど、これくらいは勘弁して欲しい。
だらしないと怒られるかもしれないけど。
彼は友人の理容師の顔をおもい浮かべ肩をすくめた。
鏡に映る自分の顔はもう、怖くない。
縦横斜めと傷跡が走り、少し目元と唇が引きつっているが、それだけだ。
「十分すぎるほどハンサムよ」
友人の妻はそう言ってくれる。
ハンサムかどうかは別にして、今の自分の顔が好きだ。
まあ、全てを見せれるわけではなく、左半分は前髪で隠しているけど、これは自分が見たくないわけではなく、世間のためだ。
むしろこちら側の方が彼は自分の顔が好きだ。
もう、この小さな町の人々はこれさえ見慣れているから構わないとも思うけれど、一応隠してはおく。
子供が泣くのは嫌だから。
彼は鍵もかけなくていい田舎町らしく、鍵をかけずにドアをしめて家を出た。
アイツのことは考える。
考えずにはいられない。
何故なら、アイツは今じゃ有名人だからだ。
テレビを視てるとすぐ出てくる。
政治家にでもなるのかと思っていたけど、意外にも今は大学の先生をしているらしい。
しかも、良くわからない哲学みたいな思想を取り扱っている。
世界を変えるような英雄になると思われていたのに、まさかの学者とは。
でも、一般向けにわかりやすく書いた思想書はベストセラーになり、彼の思想は流行語にさえなった。
今ではいろんな番組や雑誌やネットに名前がでてる。
思わず買って読んでみたけれど、前向きな気持ちになれる良い本、以外の感想はない。
でも人気があるから良いモノなんだろう。
裏表紙に載せられた、アイツの写真に見入った。
光のないような黒い目はやはり凄みがあって、皮肉な感じで結ばれた唇はあの頃のままだった。
懐かしさが溢れた。
優しく触れられた記憶。
熱い指。
まだ成長が遅く、精神的なトラウマからも性的に未熟だった15才あの頃とは違い、今はあの指を思い出しながら自慰をしているのは密やかな秘密だ。
彼には女性は性的には愛せない。
母親の肉体がちらつき恐怖を感じるからだ。
かといって男性も別に。
性欲はあるけれど、そこまで欲していないのだ。
他人の肉体は。
アイツに欲されたことを思い出せば、身体は熱くなる。
あそこまで求められ、でも思いとどまられたことに熱くなる。
指を這わせる。
顔に、唇に、性器に。
そして、一人で達する。
でも、アイツはこの顔のオレには興味ないだろう。
そう思う。
何より、少女のようだったあの頃とは身体から何から違う。
少女のような少年に。
顔をかくした怯えた少年に。
アイツは恋をしていたのだ、と今ならわかる。
バカだね、と心の中の少年のままのアイツに言う。
恋より先にセックスと支配を覚えてしまったなんて。
可哀想にな、と思う。
出会い方が違って、アイツが支配とセックスに溺れてなかったなら、違う風になっていたかもしれへんな、と。
どちらも孤独だったのだ。
アイツも彼も。
ちゃんと恋になったかもしれない。
少年時代だけで終わるものだとしても。
あれは思い出。
もう思い出。
あのことのおかげで彼は外に出れた。
思い出。
思い出なのだ。
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