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第16話

「和哉さん」 その日はレポート提出の為、大学に深夜まで缶詰が続いていて、1ヶ月間、海とは会っていなかった。アパートに来る事は勿論、連絡も控えてもらっていた。 そんな時は、渚君の家庭教師の時も絡んでは来ない。ただ、優しい兄貴の仮面で挨拶を交わすのみ。山場を迎えた今週は、バイトもお休みにさせてもらっていた。 レポート提出が終わり、帰ろうと大学構内を歩いていた時だった。 突然背後から抱き付かれ、冒頭の声を掛けられた。 この声…って思って振り替えると、海が例の爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。 「会えるかな〜って思ってたけど、本当に会えましたね。これって絶対に運命ですよ」 って、相変わらずの軽口を叩いている。 僕は溜め息を吐いて 「なんで居るんだよ」 と呟くと 「ん?大学見学」 って微笑んで答えた。 すると 「一条君、ここに居たの?勝手に動いたら、迷子になるよ?」 って、彼を呼びに来た人物に気付いて、僕は彼に一礼して歩き出す。 「え?和哉さん?」 驚いた顔をすると、彼は呼びに来た人を無視して僕を追い掛けてきた。 「怒ったの?ちゃんと手続きして、大学見学に来たんだけど…」 僕の隣に並んで話しかけてくる。 僕は立ち止まり 「僕に話しかけない方が良い」 彼を真っ直ぐに見つめてそう呟いた。 「え?それって…どういう…」 そう言い掛けた彼の腕に、さっきの女性が抱き付いて 「一条君、何してるの?」 と言って、僕の方へと視線を向けた。 「あ…、相馬さん」 その人は僕を蔑んだ目で見ると 「一条さん、そんな人と話しちゃダメですよ」 って言いながら、彼をみんなの方へと引っ張っり始めた。 「どういう意味ですか?」 彼がいつもの爽やかな笑顔を浮かべたまま言うと 「彼、男を手玉に取ってこの大学の大学院まで上がったんですよ。しかも、高校時代にはセフレが3人居て、そのうちの2人に別れ話をされたからって、腹が立って殺そうとしたのを止めようとした担任を惨殺した挙句、その罪を愛人の弁護士を使ってセフレの2人に押し付けたんだから。」 そう告げた。 (あぁ…そういう風になっていたのか…) 僕はぼんやりとその話を聞きながら、そのまま歩き出そうとした。 すると彼が 「だから?」 と、聞いた事も無い低い声で呟いた。 「え?」 驚いて呟いたその女性に 「それ、和哉さんから聞いたんですか?」 って呟いた。 「そうじゃないけど…、みんな言ってるよ」 彼女の言葉に 「みんな?みんなって誰?その人達、ちゃんと真実を和哉さんから聞いたの?」 僕が見てもわかるくらい、怒った顔をしている。 「だって…」 「どうであれ!和哉さんは俺の弟の大事な家庭教師の先生なんです。この人を侮辱するのは、俺が許さない!」 そう叫んだ。 そして僕の腕を掴むと 「帰りましょう!」 って言いながら歩き出す。 ズンズンと黙って歩く彼に 「ちっと待って…。海、ちょっと待ってってば !」 叫んだ僕に、海が怒った顔で振り向く。 「なに!」 叫ぶ海に 「出口…逆…」 って呟くと、海は一瞬「しまった」という顔をすると、みるみるうちに真っ赤になった。 「もっと早く言えよ!」 そう言ってプイっと顔を背けた海が可愛くて、思わず吹き出してしまった。 「あははははは!」 爆笑する僕に、海は驚いた顔をした後 「そんなに笑うなよ」 ってデコピンして来た。 「痛いな!」 おでこをさすりながら見上げると、海が「ふっ」って優しく笑う。 その笑顔は多分、今まで見た事の無い海の自然な笑顔だった。その瞬間 『ドクリ』 と心臓が高鳴る。 かぁ〜と顔が熱くなり、僕は誤魔化す為に海の頬を左右に引っ張り 「ガキの癖に生意気!」って叫んだ。 「痛えな!ガキって、そんなに変わらないだろうが!」 「はぁ?23歳と17歳はかなり違います!」 あかんべして言う僕に、海は唇を前に出してふて腐れている。 言い合いをしながら帰宅して、アパートが近付く。 (どうしよう…疲れてるから相手出来ないけど、お茶くらいは出さないとだよな…) そう考えていると 「じゃあ、俺は此処で…」 って、海が僕をアパートの玄関まで送ると帰ろうとした。 「え?帰るの?」 思わず聞くと、海は「はぁ」って大きく溜め息を吐いて 「俺、今は飢えた狼なの。だから、そのまま振り返らずに玄関入ったら鍵を掛けて下さい」 そう言って困ったように言うと、僕の身体を玄関へと向けて背中を押した。 僕は「フフフ」って笑って 「親切な狼さん、ありがとう」 って玄関に入って振り返った。 するとドアをガシっと掴まれて 「振り替えるなって言ったのに…」 そう呟かれて玄関に押し込まれると、ドアが閉まった。 思わず身体を強張らせると、海は切なそうに瞳を揺らせて僕を抱き締めた。 「ごめん。なにもしないから…、怯えないで…」 って囁かれた。 (海?) 驚いて見上げると、海の手が僕の頬に触れた後、ゆっくりと下ろされた。 「海?どうした?」 驚いて見上げた僕に、海は悲しそうに微笑んだ。 「ごめん、疲れてるよね。もう、休んで…」 海はそう言って僕の身体をゆっくりと離すと 「帰ります。驚かせてすみません」 そう言って、僕に背を向けて歩き出した。 なんだか海の背中が遠く感じて、手を伸ばし掛けて下ろすと同時にドアが閉まった。 この日以降、海が僕の部屋に来ることは無かった。

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