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第19話

「和哉、起きろ!」 ベッドで眠っていると、小関さん…もとい。 政義さんに叩き起こされる。 眠い目を擦っていると 「昨日、何時まで論文まとめてたんだ?」 と、呆れた顔をされる。  あの日の翌日、大学までの送迎を政義さんがしてくれて、帰宅すると僕の荷物は既に此処に引っ越しされていた。 「家庭教師のアルバイト、どうするんだ?」 そう聞かれて僕は俯く。 「行くよ。中途半端にはしたくないから」 そう答えると 「そうか…。じゃあ、送迎するから」 と言われて 「ダメだよ!政義さんだって、仕事忙しいのに」 って答えると 「俺がやりたいんだよ」 そう言って額にキスを落とされた。 あの日以来、政義さんは僕に触れて来ない。 僕が求めれば答えてくれるけど、決して政義さんからは求めて来ない。 まるで「いつでも逃げられるように」されているみたいだった。 だから僕も求めるのを止めて、今は別々に寝ている。 論文を書いていれば、全て忘れられた。 あの日以来の家庭教師のアルバイトの日。 いつも通りに一条のお宅へ行くと、2階の踊り場に海が立っていた。 僕は顔を見るのが怖くて、視線を落としたまま無視して渚君の部屋のドアノブに手を掛けた。 「和哉さん、いつ引っ越したんですか?あの後、追いかけたのに見つけられなくて…。次の日、学校終わりにアパート行ったのに…何も無くて…」 彼の言葉に目を伏せた。 (もう…良い。何も聞きたくない) そう思って、渚君の部屋に入ろうとした腕に手を伸ばされた。 「触るな!」 思わず叫んでいた。 彼はビクっとして手を止めた。 「二度と話し掛けないで下さい。次に声を掛けて来たら、このバイトを辞めます」 ドアノブを見つめて呟くと、彼の手がゆっくりと下されるのが見えた。 「それは…終わりって事ですか?」 悲しそうな彼の声が聞こえる。 (なんでお前が、そんな悲しそうな声を出すんだよ) 「終わりもなにも、最初から始まってないだろう?僕は君にとって、ただの性欲の吐口だったんだから」 小さく呟くと、彼は弾かれたように僕の肩を掴んだ。 「違う!俺は…俺は和哉さんが……」 驚いて見上げた彼の顔が悲しそうに歪んでいる。 「どうして君がそんな顔をするの?」 僕の言葉に彼が口を開き掛けた瞬間、渚君の部屋のドアが開いた。 「兄貴!何やってるんだよ!」 怒った顔で彼の腕を僕から引き剥がすと 「兄貴、この間からおかしいよ!先生に迷惑掛けるなよ!」 そう叫んだ。 「渚、後で説明するから、お前は黙っててくれ!」 「説明って何?先生に迷惑掛けて、何の説明だよ!」 言い争う2人の声に驚いたように、一条さんご夫婦が階段を駆け上って来た。 「何してるんだ!海、渚!」 一条さんが2人を引き剥がすと、海が僕に視線を向けて近付こうと手を伸ばした。 僕はその手から視線を外し 「すみません。兄弟喧嘩の原因は…僕です。今日限りで、辞めさせて下さい」 そう言い残し走り去った。 「和哉さん!」 背後で海の叫び声が聞こえる。 気が付くと、雨が降り出していた。 ドラマみたいだって思いながら、駅まで走り続けた。 もう、これで終わる。 これで良いんだ。 そう思った瞬間、肩を掴まれて引き寄せられた。 抱き締められた腕が震えている。 「嫌だ!誰にも渡さない!」 そう叫ばれて 「先に離れたのは、きみじゃないか…」 僕の口からは、驚くほど冷静な声が出た。 「違う!違うんだ!」 必死に食い下がる彼に 「もう、良いから。全て忘れてあげる」 小雨だった雨が激しく叩き付けるように降り出す。 綺麗な彼の顔が雨で濡れている。 こんな時でも、なんて綺麗な顔をしているんだろう…って思った。 そっと彼の頬に触れて、小さく微笑む。 すると彼はホッとしたように、僕の手に彼の手を重ねた。 「聞いて下さい…俺…」 「さよならだ…一条君」 彼の言葉を遮るように、僕はそう伝えた。 遠雷が鳴り響き、何処かのテレビドラマみたいだと思った。 彼の頬に流れる雨が、何故か暖かかった。 涙なのかもしれないと思ったけど、もう、僕にはどうでも良かった。 「それが…あなたの答えですか?」 僕を真っ直ぐ見つめる彼の綺麗な瞳を見つめ返して 「そうだ」 と答えると、稲光が光って、一瞬、世界が白く変わった。 「嫌です…」 雷鳴にかき消されそうな声で彼は呟いた。 「もう…会えないなんて…嫌です」 駄々っ子のように繰り返す彼に、僕は最後の止めを刺す覚悟を決めた。 温かい雨が流れる彼の頬から手を離そうとすると、彼は僕の手に触れていた手に力を込めた。でも、雨で濡れた手はするりと離れ、僕は彼に背を向けた。 「きみに追い掛けられるのは迷惑だ!二度と目の前に現れないでくれ」 吐き捨てるように言うと、僕は彼を残して歩き出した。 背後で、崩れ落ちるように泣いている声が聞こえた気がした。 でも、雷鳴の音で聞こえないフリをして歩き続けた。今、足を止めたら引き返してしまう。 彼の話を聞いてしまう。 …もう、小関さんと生きると決めたんだ。 何度も僕の手を引いて、横道に逸れないようにしてくれた人を選ぶと決めたんだ。 (海、ごめん…。傷付けてごめん。酷い奴だと呪ってくれて良い。恨んでくれて良い。きみはもっと普通の幸せな道を歩いて欲しい。それはきっと、僕とは歩けない道だから…) 僕は漏れる嗚咽を必死に押さえ、流れる涙が止まるまで駅の高架下で泣き続けた。

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