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第60話

あの日から数日が経過して、金曜日の渚び家庭教師の日が来た。 まだ、和哉さんは家庭教師を辞めていないと聞いて、話を聞いてもらおうと最後の賭けに出る決意をしていると 「兄貴、ちょっと良い?」 と、渚に声を掛けられる。 「兄貴、相馬先生と何かあった?」 突然言われ、思わず渚の顔を見る。 「兄貴が何を考えてるのか知らないけど、俺、相馬先生の授業が好きなんだよ。もし、邪魔するようなら、俺、兄貴を許さないから!」 そう言われてしまった。 金曜日当日。 いつもの時間に和哉さんが来た。 俺は、2階の自分の部屋のドアの前で和哉さんを待っていた。 和哉さんは俺の気配を感じると、視界に入れないように視線を落としたまま無視して渚の部屋のドアノブに手を掛けた。 「和哉さん、いつ引っ越したんですか?あの後、追いかけたのに見つけられなくて…。次の日、学校終わりにアパート行ったのに…何も無くて…」 無視されると分かっていても、終わらせたくなくて必死だった。 でも、和哉さんは俺を無視して渚の部屋へ入ろうとした手を伸ばした。 終わらせたくなくて、その手を掴もうとした瞬間 「触るな!」 そう叫ばれた。 初めて聞いた、和哉さんの完全拒否の声にビクっと身体が震えて手が止まる。 「二度と話し掛けないで下さい。次に声を掛けて来たら、このバイトを辞めます」 決定的な言葉を言われて、俺は絶望に手をゆっくり下ろした。 「それは…終わりって事ですか?」 そう訊くと、和哉さんはチラリともこちらを見ないまま 「終わりもなにも、最初から始まってないだろう?僕は君にとって、ただの性欲の吐口だったんだから」 と、吐き出すように言われてしまう。 「違う!俺は…俺は和哉さんが……」 必死に肩を掴んで言うと、和哉さんの瞳がやっと俺を見上げた。 でも、その瞳は悲しみに沈んでいる。 「どうして君がそんな顔をするの?」 哀しそうな顔で言われ、無意識に伸ばされた手が俺の頬に触れようとした時 「兄貴!何やってるんだよ!」 渚の部屋のドアが開いて、俺と和哉さんの間に割って入った。 伸ばされた手は、ゆっくりと孤を描いて下ろされていくのを見て、もしかしたら…。 もしかしたら、まだ少しは救いがあるのかもしれない。そう、思った。 すると、何も知らない渚が 「兄貴、この間からおかしいよ!先生に迷惑掛けるなよ!」 そう叫んだ。 「渚、後で説明するから、お前は黙っててくれ!」 渚を退かして和哉さんに触れようと思った。 和哉さんの目が、まだ俺を見ている間になんとかしたかった。 もう、忘れられるのは嫌だった。 又、他人になんかなりたくなかった。 でも、渚は和哉さんの前に立ちはだかり 「説明って何?先生に迷惑掛けて、何の説明だよ!」 そう叫んだ。 俺に殴りかかる勢いで胸ぐらを掴む渚を払おうとして、俺達が揉み合っていると、その騒ぎを聞きつけて、父さんが階段を上って来た。 「何してるんだ!海、渚!」 と叫んで、俺達を引き剥がした。 その時、少しだけ和哉さんとの距離が近付いた。 俺は必死に和哉さんへ手を伸ばしたけど…、和哉さんは片手で自分を抱き締めるように腕を組んだ姿で俺から視線を逸らした。 そして 「すみません。兄弟喧嘩の原因は…僕です。今日限りで、辞めさせて下さい」 そう言い残し走り去った。 「和哉さん!」 俺は必死に叫んで、渚や親父の静止を振り切って家を飛び出した。 外は雨が降り出していて視界が悪い。 それでも、今、追わなければ完全に終わると思った。必死に探して、やっと和哉さんを見付けて肩を掴んで引き寄寄せて抱き締めた。 「嫌だ!誰にも渡さない!」 必死に叫んだ俺に 「先に離れたのは、きみじゃないか…」 突き放すような和哉さんの声。 「違う!違うんだ!」 必死に叫んでも遅かった。 「もう、良いから。全て忘れてあげる」 小雨だった雨が、段々雨足が激しくなって俺達 の身体を打ち付ける。 なんて言えば良い? どうしたら分かってもらえる? もう、離れるのは嫌だった。 いくら責められても良い。 罵られても、罵倒されても構わない。 だから、俺の前から消えないで! そう考えていたら、そっと俺の頬に和哉さんが触れて小さく微笑んだ。 その顔は優しくて、俺の気持ちが届いたのかもしれないと思った。 「聞いて下さい…俺…」 必死に話をしようとしたその時、和哉さんの顔から笑顔が消えた。 何も映さない、ガラス玉の瞳が俺を見つめて 「さよならだ…一条君」 と、決定的な一言を俺に告げた。 その時、遠雷が鳴り響いて俺達の別れを後押ししているように聞こえた。 目を見開いて和哉さんを見つめ 「それが…あなたの答えですか?」 そう、声をやっと絞り出した。 すると俺の頬に触れたまま、和哉さんの意思が込められた瞳が俺を真っ直ぐに見つめて 「そうだ」 と答える。 すると稲光が光って、一瞬、世界が白く変わる。 その時、和哉さんの瞳が哀しそうに揺れたのが見えた。 もしかしたら、少しでもまだ俺の事を好きでいてくれるのかもしれない。 そう思った。 「嫌です…」 縋りたかった。 情けないと言われても、みっともないと言われても、俺はたった1%の可能性でも賭けるしかなかった。 俺の頬に触れた手に俺の手を重ねて 「もう…会えないなんて…嫌です」 必死に繰り返す言葉に、和哉さんが辛そうに視線を逸らす。 もう…本当にダメなのか? 絶望に近い状況で、和哉さんが俺の頬から手を離そうとしたのが分かった。 必死にその手を離すまいと力を込めても、 温かい雨が流れる彼の頬から手を離そうとすると、雨で濡れた手はするりと離れてしまう。 和哉さんは俺に背を向けて 「きみに追い掛けられるのは迷惑だ!二度と目の前に現れないでくれ」 そう吐き捨てるように言うと、駅へと歩き出した。 本当に終わってしまった。 俺の軽率な行動のせいで、和哉さんに嫌われてしまった。 俺は土砂降りの雨の中、その場に崩れ落ちるように泣いた。 人生で、こんなに泣いたのは初めてじゃないかと思う程、俺は泣き続けた。

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