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その名に懸けろ
スーツの胸ポケットに入れた携帯電話が振動した。
「香川です」
携帯電話なんか持たされているので、首輪を付けられた犬みたいな気分だ。
『平島だ』
「はい、なんでしょう?」
『おい、なんか騒がしいな』
「すみません、球場ですから」
『球場? 神宮か?』
「いいえ、甲子園です」
『甲子園? それはまたえらい遠征だな───ってことは、無理か』
「無理? 仕事ですか? 明日の昼前には東京に戻ってますけど」
『いや、いい。なにもおまえの手がなきゃ困るってヤマじゃない』
手が要るから電話してきたんじゃないのかと香川は思う。なんの用もないのに電話なんかかけてくる人じゃない。わざわざかけてくれるような人じゃない。
『まあ、頑張って応援しろ、虎』
「…はぁ…」
指定席最下位のチームだと分かっていて言っているらしい平島が憎らしい。香川は別に虎党ではないが、虎ファンのツレに誘われて球場に来たので、一応は虎を応援する気でいた。それはまぁ確かなのだが、でも、『わざわざ』応援しろと言うだなんて、なにか理由でもあるのだろうか。
「とにかく明日は戻ってますんで昼頃には平島さんちに寄ります」
香川が言うと、平島はフフっと笑った。表情まで心の中で思い描ける。彼の、どこか人を食ったような独特の笑顔は、香川の目にとても印象的だ。
その夜、一対0の完封リレーで虎は辛くも勝利した。
約束通り香川が平島のマンションを訪ねると、残念ながら留守だった。
どうするかなぁ、待つかなぁ、それとももう帰って寝ちゃおうかなぁなどと色々考えているうちに軽く一時間ほど経ってしまった。どうせ平島はオレのことなんか待っていないと香川は思う。平島にとっての自分が手駒の一つで、決して特別な相手ではないと香川は分かっている。行きますと言っておいたところで、待っていてくれることはない。友人という立場なら待っていてくれたかもしれない。恋人でもいい。チェスピースのように、ただの手駒でしかない以上、その程度の対応しか望めないのは分かっている。
「なにしてる、香川。人の家の玄関前で座り込むな」
振り返ると、ダンボール箱を抱えた平島が憮然とした表情で立っていた。
「……だってオレ、昨日の電話で、昼には寄りますって言ったじゃないですか」
「…そうだったか?」
完全に忘れられていたらしい。
「とにかく入れ。そんなヤー公ヅラで座り込みかまされちゃオレがここに住み難くなる」
誰のせいだと突っ込みたくなるけれど香川はぐっと我慢した。
平島青磁という男は、カタギではないくせに、かなりバランスのいい人間だ。周囲の人間には気を遣い、連絡もマメに取り、約束を守る。それなのに、なぜか香川に対してだけは我儘全開だ。約束は守らない、言ったことはすぐに忘れる、昼夜問わず電話をかけてきて、時には迎えに来いと命令する。香川の機嫌を伺うこともなく要求だけを突きつけてくる。
「風呂に入ってくる。その間になにかメシを調達しておいてくれ」
ダンボール箱をリビングの隅に転がした平島はそう言ってバスルームに消えた。
メシの調達ということは、なにか作れということだろう。だいたい、出前なんかで、肥えに肥えた平島の舌が満足するわけがない。でも、手料理は別だ。滅多にお目にかかれないと言っていつも喜ぶ。香川は何度も平島のために料理をした。最初から出来たわけじゃない、必死で覚えたのだ。
無造作に置いたダンボール箱の中に現金が詰まっていることは分かっている。それをその辺りに置いていくのもいつものことだ。目の前の男を平島は番犬ぐらいに思っていて、犬が現金を持って逃げるかもしれないだなんて想像もしないのだろう。そしてその番犬は、都合のいいコックでもある。我儘言い放題の執事でもあり、居心地のいい部屋を保つ清掃員でもある。
「……まるで嫁サンだな…」
ぽつりと呟き、香川ははっとする。平島青磁には妻どころか恋人の影すらない。女がいるという話も聞かないし、いたという噂も聞いたことがない。
「香川、メシ」
「もうすぐできますからちょっと待って下さい」
「……おまえは本当にのんびりだな」
言われるままだ。反論する気にもならない。なにかまだぶつぶつ言っているけれど、フライパンの音に掻き消えて聞こえない。
「お待たせしました、どうぞ」
言って、香川はチャーハンとサラダとインスタントのコーンスープをテーブルに置いた。平島には出したことがないので、チャーハンなんか好きかどうかは分からない。でも、出したことがあるメニューにするのはなんとなく嫌で、いつも食べさせたことがないものを出すようにしている。もちろんそろそろレパートリーは切れそうだし、湯を入れるだけのインスタントも使ってしまうのだが。
「頂きます」
平島は手を合わせてそう言った。
「どうぞ」
いろいろ言いたいことはあるけれど、取り敢えず空腹をどうにかしたいという平島の要求を香川は受け入れて頷いた。人間、空腹だと機嫌が悪くなるし、纏まる話も纏まらない。
それに、香川は単にこういう時間が好きなのだ。文句を言わずに残さず食べてくれる平島を見ているのが好きだ。高級な料理ばかり食べているだろうに、ズブの素人が十分や二十分で作ったものも食べてくれる拘りの無さも好きだ。食べ終わったら、律儀にごちそうさまと言ってくれるところも好きだ。たくさん食べるわけではないけれど、食べ終わると美味かったと言ってくれるところも好きだ。
「そうそう、香川、昨日はありがとう」
「……はい?」
「おまえが虎の応援についてるって聞いたから、虎一点賭けにしてみた」
「はあ…」
「あの箱の中身、おまえに半分やる。なんせおまえのおかげで十三倍になったからな。ざっと二億だ」
その言葉の意味を香川は必死で考えた。
そして、はっと思い当たり、香川は平島を見つめた。
「…野球賭博……!」
「ははは……今月勝率三割の虎に一点賭けする奴なんかオレだけだったからな…一人勝ち」
ツレに付き合って甲子園で野球観戦していただけなのに、一億もの大金が転がり込んできたらしいことに香川はようやく気が付いた。
「オレはただおまえに懸けただけだ───おまえの勝ち運にな」
あまりのことに驚き、ぼんやり開いた香川の口に、平島はスプーンを突っ込んだ。
「ちょっとアレだと思わないか……塩が足りない」
「……はぁ…ええ……そうですね…」
突っ込まれたチャーハンをどうにか飲み込んで香川は同意した。確かにその通りだ、塩が足りない。でも、それ以外はよく出来ている。卵も上手く絡んでいるし、べったりした感じもない。素人が作ったにしては本当に上手くできている。
「美味かった、ごちそうさま」
億単位のやり取りをしながら、この人はなんて緊張感が無いんだと思い、香川はついつい苦笑する。つられるように平島も笑う。
犬でもいい。手駒でいい。この人がオレの運を欲しがるなら全て差し出しても構わない。香川は心からそう思う。運だけじゃない。身体も、命も、使えるならなんだって差し出す。
「じゃあオレは寝るから、その箱から半分持って行ってくれ。おやすみ」
信頼関係なんか一朝一夕で構築できるものではない。そう考えて香川は焦らないことに決めている。焦らずじわじわ外堀を埋め、いつか平島にとって不可欠の手駒になってやる───そう思っている。
でも、香川は気づいていない。とっくに平島が香川を受け入れていることを。受け入れているからこそこんな風に当たりが強い。
「…おやすみなさい」
それに、もし平島が香川を認めていないのなら、敗色濃厚なチームに一点賭けなんかするわけがない。香川の豪運を信じているからこそ統計や確率をあっさり無視する。
もちろん今回だけではない。博徒として天才の名を欲しいままにしている平島のような男にとって、そんな行為はバカの行いだというのに、香川の勘が働いたとみるや簡単に理論を無視する。平島のその行為が異常だと今の香川はまだ分かっていない。
早くここまで来い───平島は本気でそう思う。香川の苛立ちに気づいていながら敢えて素っ気無く接するのは、自力で成長してもらいたいからだ。それだけ香川を買っているし、駆け上がってくると思っている。たとえ今は犬のようにあしらい、ただの手駒として扱っていても、平島は香川の能力を信じている。
人に言えない稼業を平島は長く続けているが、こんなにも先が楽しみだと思う人材に出会ったのは二人目だ。一人目はもうとっくに平島の手を離れて独立している。優秀な人材なんてそうそう自分だけのものになんかならない。それは分かっている。もしかすると香川も一人前になった途端に離れていくかもしれない。
それでも、だ。
それでも、香川に懸けることに決めている平島の決意は揺るがない。香川が同じ土俵に上がってくるまでいつまででも待つつもりなのだ。
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