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第80話 殻を破る
貴臣が帰宅したのは夜だった。
部屋にいたら、階段を上る足音が聞こえてきて、ごくりと唾を飲み込む。
上がりきったタイミングで、意を決してドアを開けて顔を出した。
「おっ、おかえりっ!」
貴臣は目を丸くして立ち止まった。
俺はいつも以上の笑顔で明るく話しかける。
「随分遅かったんだな。明日学校あんのに大丈夫かよ? どこ行ってたんだ?」
「……悠助の、所に」
なんだか弱々しく返されて、ついでに視線も逸らされてしまった。
「ふーん。あぁ、昨日そのまま出てきちゃったもんなぁ。心配してただろ?」
「えぇ。勝手なことをしてすまないと、謝りました」
貴臣は俺の横を通り過ぎてしまった。
え、それだけ?
振り返ると、貴臣がドアを開けて部屋に入るところだった。
もっとなんか、話したいことがあったんじゃないのか、俺。
俺は追いかけて、貴臣の腕を掴んだ。
貴臣は掴まれた手を見ながら、じっとしている。
「なんですか」
「……えっと、あのさぁ」
ダメだ。本人を目の前にすると勇気が出ない。伝えようと思っていたことが全部頭から抜けていく。
言葉に出来ないし、何をしゃべったらいいのか分からない。
居心地の悪さから、はやく喋らなくてはという気持ちが勝ってしまい、適当な言葉がすらすらと出てくる。
「あ、来年あたり、父さんがみんなで旅行にでも行かないかって言ってた。北でも南でも、好きな所でいいって」
「……」
「貴臣はっ、どんな所に行きたいっ?」
「どうして貴方は、そうやって平気で殻を破ってくるんですか」
また『貴方』かよ。
そう言われるとモヤモヤした気分になるからやめて欲しい。
「殻……って、何?」
「俺が被っている膜のことですよ。頑丈で硬いのに、貴方はその中にうまく入り込んでくる。いつの間にか溶け込んで、いるのが当たり前になって。まるで初めからそこにいたみたいに」
なんだ、どうした。
言われていることがよく分からなくて、こめかみに手を当てて首を傾げた。
貴臣はようやくこちらを見る。
「昨日俺に、何をされたのか覚えてないんですか。どうしてそうやって俺を気遣うんですか。あんなに酷くしたのに、どうして無かったことにしているんですか」
「えっ……いや、無かったことになんかしてな……」
貴臣は徐に俺の腕を持ち上げ、袖の下から痣のついた手首を覗かせた。
どこか痛ましそうに表情を歪ませた後、手を離した。
「相良先輩には会えなくて直接言えなかったのですが、悠助には伝えておきました。貴方がもう、先輩と付き合える準備が出来たのだと」
「……へ?」
「おめでとうございます。これで晴れて貴方たちは、恋人同士ですね」
ふ、と唇だけで笑われて、貴臣は部屋に入ってドタを閉めた。
俺はしばらく立ち尽くしたまま、ドアノブの小さな傷を見つめていた。
あの声だ。あの時の声と一緒だ。
中一の貴臣が煩わしそうに『見た目で判断するんですか』と俺に言い返した声。冷たく突き放すようなひやりとする声。表情。
俺は何を、伝えようとしたんだっけ。
やっぱり思い出せなかったけど、瞬きをしたら雫がまわりに弾けたので、きっと心の奥底では本当は分かってるんだなぁと認識した。
伝える隙も、与えてくれない。
俺は口角を上げて、自分の部屋に戻った。
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