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第二話

 その日からヒカリの生活は一変した。  言うなれば地獄。  キョウジは宣言どおり、ヒカリを自宅に閉じ込めた。  SPという名の監視人がヒカリの動向をつぶさに観察する毎日。全員が武術に長けた強者で、彼らの目を盗んで家を出ることなど不可能だった。  実家に連絡しようと思っても、キョウジにスマホを取り上げられたうえに、自宅には電話やパソコンの類いが置かれておらず、連絡手段はない。 ――家に籠もりっきりで一切の連絡を絶った自分を、父や兄が心配して訪ねてくれないだろうか……。  自分では何もできないけれど、せめて外部からの接触さえあれば……今はその可能性に賭けるしかない。  ヒカリはそう願った。  しかし事態は彼の思惑どおりに運ばなかった。  愛しい番を人目に晒さず、自分の“巣”に囲っておきたいというのが、アルファの本能であり本質だ。  特にキョウジとヒカリは結婚したばかり。  新婚のうちは番を外に出さないアルファも多いから、きっとキョウジもそうなのだろうと周囲は考え、ヒカリが家から出ないことに納得していたのだ。  こうして外部と遮断されたヒカリができることと言えば、日々の家事のみ。  もともと実家でも家事を担っていたヒカリは、家事がかなり得意な方だった。  母には「どこにお嫁に出しても恥ずかしくない」と太鼓判を押され、ヒカリ本人も自信があったのだが、キョウジは妻のやること全てに難癖を付けた。  料理を出せば味付けが好みではないと責める。 「出自以外は役立たずなのだから、俺好みの味にしろよ」  短い交際期間の中で、キョウジが連れて行ってくれたレストランのメニューや味を思い出し、なんとか再現しようと頑張ってみたが、何を作っても「まずい」と言われ、罵倒される。丹精込めた料理を捨てられたことも、一度や二度ではない。  ならばどういった味付けが好みなのかと尋ねても、一向に教えてはくれない。  洗濯をすれば、たたみ終えた衣類からオメガの匂いがすると指摘をされる。 「こんな甘臭いフェロモンが染みついた服なんか着られるかよ」  そう言ってヒカリの前でシャツを床に叩き付け、踏みにじった。  当のヒカリは、目の前でグシャグシャになったシャツから、フェロモンの香りなど一切感じない。 「僕の発情期はまだ先で、フェロモンなんか出ていないはずです。きっと気のせいか、もしくは柔軟剤のせいで……」 「俺が間違ってるって言うのかよ!」  刹那、けたたましい破裂音と共に右頬に激しい衝撃が走った。  そして床の上に倒れ伏している自分に気付いた。  頬がジンジンと痛む。頬にソッと手を当てると、カッと熱を持っている。 ――()たれた……?  まさかの仕打ちに、言葉が出ない。  信じられないという顔で、キョウジを凝視することしかできなかった。 「今後は俺の持ち物には一切触るな!」  キョウジは吐き捨てるようにそう言うと、未だ床に伏したままのヒカリを置いて部屋を出て行った。 「酷い……」  ヒカリの目から、滴がポタリと落ちる。  熱を持った頬を伝った涙がやけに染みて、余計に痛みが増す。  結婚前、熱っぽい目で愛を囁いてくれたキョウジの姿が脳裏に蘇る。 『ヒカリのことは、俺が一生守るから』  そう言って抱きしめてくれたキョウジはもういない。  明星家との繋がりを手中に収めるために、ヒカリを愛しているように装っていただけ。 ――あれが全部、演技だったなんて。  キョウジの嘘が見抜けなかった間抜けな自分に、笑いすらこみ上げてくる。  そんなに自分が嫌ならば、今すぐ追い出せばいいのに。もしくは外泊でもすればいいものを……ヒカリがいくらそう願っても、キョウジは夜になると必ず帰宅する。 『番の側から離れたくない』というアルファの本質を理由にヒカリを軟禁している手前、嫌でも帰らなければならないというのが実情なのだが、それを知らないヒカリの精神はどんどんと落ち込んでいく一方。  そんなヒカリを無視するように、キョウジは結婚半年後くらいから女を連れ込むようになった。  そして彼の秘書だというベータ女性と、ヒカリも住む家内で睦み合うようになったのだ。  ヒカリとは一度も同衾していないというのに。  ベータ家庭に生まれ育ち、高一でアルファと診断されるまで一般的なベータの倫理観で育ったキョウジの性的指向は、女性にのみ向けられていた。  いくらオメガとはいえ男と抱き合うなんて(もって)ての(ほか)。  だから結婚前からヒカリに触れようとはしなかった。  結婚前のヒカリはそんな誠実な態度が好ましいと思っていたが、実際は男性であるヒカリに触れるのを嫌がっただけなのだ。 ――僕の目は、どこまで節穴だったのか……。  一緒に暮らすようになってから、キョウジはヒカリに抑制剤を飲むよう強要した。それだけでは心許ないと思ったのか、自らもアルファ用のラット抑制剤を服用する始末。  発情期の際はヒカリを自室に閉じ込めて、外から鍵をかけて出られなくする念の入れ(よう)。  オメガのフェロモンに()てられるのを阻止するための処置だった。  二人が結婚して一年が過ぎようとするのに、一度も肌を合わせたことなく、当然番にもなっていない。  それなのに夫は妻を差し置いてほかの女と激しい情を交わしている。  キョウジの部屋から嬌声が聞こえるたびに、ヒカリは耳を塞いで奥歯を噛みしめた。  両の目から涙が滂沱し、嗚咽が漏れそうになるのを必死で堪える。  キョウジの前で無様な姿を晒すのだけは死んでも嫌だ……そう思い、必死で耐えてきたのだ。  けれどヒカリの精神は、もう限界ギリギリだった。  だからリビングでキョウジが愛人と抱き合っている最中に 「奥さんと私、どっちが好き?」 「当然お前に決まってるだろ。いくらオメガとは言え、胸も尻肉も薄っぺらい男なんかに俺は興味がない」 「仕事のために仕方なかったのよね」 「あの老害がさっさと面会に応じていれば、あんな辛気くさい男なんかとは結婚しなかった。同じ家に住んでるってだけで虫唾が走る。今のプロジェクトが成功した暁には、あんな男すぐに追い出してやる」  そう嘲り笑ったのを聞くに至り、ヒカリの心はポッキリ折れた。 ――キョウジさん……それがあなたの本心なんだね……。  深い絶望が、ヒカリを包む。  ズタズタに引き裂かれた心に闇が降りる。 「あなたがその気なら、僕ももう迷わない。お望み通り綺麗さっぱり別れてあげるよ」  小さく呟いた声は、狂乱中の二人には届かない。  けれどヒカリは構わずに言葉を紡いだ。 「でもその前にもう少しだけ、僕に付き合ってくれてもバチは当たらないよね?」  握った拳に、力が籠もる。 「この恨み……晴らさでおくべきか」

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