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第38話
「何処へ行っていた?」
ニコライに伴われてホテルに戻ると、上着をソファーの背に掛け寛いでいブルーグレーの眼がジロリと睨んだ。
「コーヒーを飲んでいた」
俺は簡単に答え、ミハイルの向かいのソファーに座った。ニコライが小さく頷いてるのが視界の端に見えた。
「そうか......」
ヤツはテーブルの上の葉巻を手に取り、火を点けた。深いフルーティーな薫りが広がる。ヤツの唇が呟いた。
「お前がジャズを好きだとは知らなかった」
「俺だって大人だ。....結構、渋好みなんだが...」
ヤツが、あぁ.....と言うように口の端を上げた。俺はちょっとムッとして、ボトルのミネラルウォーターを飲み干し、テーブルの上のチョコを口に放り込んだ。ゴディバとは、さすがに高級ホテルのスイートのもてなしだ。
「よくわかったな」
「ストリートビューがある」
皮肉めかして言う俺に、ヤツはいなすように、タリズマンを燻らせる。
「着替えろ」
ふと見るとヤツは既にタキシードに着替えていた。俺は、ニコライの手から今夜の衣装を受け取った。
身体にフィットしたタンクトップインナーの上に凝った織りの絹で仕立てられた漢服....いわゆる長抱はたっぷりとした袖と長い裾ー色は僅かに赤みを帯びた黒.....返り血を目立たせないためだろう。下着はCストローク....もう抗議する気にもならなかった。溜め息混じりにヤツを鏡越しに睨みながら、七分丈の同色のパンツに綸子の沓を履く。
袖には余裕があるものの、身頃は身体の線に沿ってぴったりに作られていた。
「いつの間にこんなもんを作ったんだ?採寸なんぞしてないぞ」
首を傾げる俺に、ヤツはニヤリと笑った。
「私が測っておいた。熟睡している時にな」
「てめぇ.....!?」
恥ずかしさと怒りで真っ赤になる俺にヤツは澄まして言った。
「他人の前で素っ裸になるのはイヤだろう?戦闘服なんだ。無駄に動きを妨げないよう、配慮したんだ.....但し、お前の美も損なわないように、な。苦労したぞ」
俺は呆れてもう言葉が出なかった。
「よく似合うぞ」
「女みてぇだ」
鏡を前で盛大に溜め息をついてボヤく俺の後ろで、ヤツがご満悦な顔でニヤニヤしていた。
「女よりもキレイだ」
「ふざけた事をぬかすな!」
ヤツは俺の怒りなどちっとも気にも留めない体で、葉巻を蒸かしていた。
鏡の向こうのミハイルの目尻が僅かに下がって、鼻の下が心もち伸びていたような気がしたのは、たぶん俺の気のせいだ。
俺は腹を立てるのも虚しくなり、ヤツを無視して、衣装に仕込みをすることに専念した。左腕の内側と両脛の外側に刀子(トウス)を、右の袖内に最小サイズのPSS-2をセットする。
「装備が過ぎるか?」
と訊く俺に、ヤツは淡々と言った。
「いいや...。イレギュラーに備えるのは良いことだ。慢心は身を滅ぼす」
タキシードのベストの腋、ピタリとしたホルスターからヤツのAT3000が覗いていた。
「やっぱりあんた、相当ヤバい奴だな」
と俺が言うと、ミハイルがニヤリと笑った。
「お前もな.....」
どんな場面でも丸腰にはならない。それが俺の、裏の稼業で生き抜いてきた人間の知恵だ。ただひとつ、ヤツとのベッドの中だけが例外だった。
「行くぞ」
パーティーの始まりだった。
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