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第49話
「エルミタージュ........か」
俺は窓に凭れてぼんやり外を眺めていた。
サンクトペテルブルクは、帝政ロシア時代の首都で、由緒ある古い都市だ。
オヤジは表向き貿易商を名乗っていて、二年ばかりこの街のに事務所を構え、東洋の美術品を売り捌いていた。日本のごくありふれた商店街の片隅に育った俺には、歴史の刻まれた威厳のある町並みは正直、居心地の良いものでは無かった。
名門大学のビジネススクールに突っ込まれ、場にそぐわぬアジア人の小倅だった俺は随分と肩身の狭い思いをしていた。
アイツに、ミーシャに出会ったのはそんな時だった。アイツはいつも優しかった。だが、俺はヤクザの倅だ。真面目なインテリのアイツが関わっていい相手ではない。俺はひどく悩み、ある時、決心してヤツに俺の背中を見せた。俺は日本を出る時にすでに刺青を入れていた。
『これは......』
ヤツは俺の背中で翼を拡げる鷲に息を呑んだ。
『わかったろう、俺はヤクザなんだ。あんたみたいな真面目なヤツが、関わっちゃいけない』
だがアイツの反応は想定外だった。
『触ってもいいか?』
『構わねぇよ』
外人には珍しいんだろうと思った。アイツは、俺の背中の鷲を撫でるように指を触れ、そして口づけした。さすがに俺はビックリした。が、嫌な気はしなかった。そしてアイツは俺の背中を抱きしめて言った。
『大丈夫だよ。ラウル、僕も似たようなもんだ....』
それから俺達はもっと親密になった。アイツが俺と幾つも違わないのに、モスクワ大学の大学院に在籍しながら、サンクトペテルブルク大学の研究生をしていると聞いて死ぬほど驚いた。
『スキップしたんだ。東洋学を学びたくて.....モスクワよりこっちの方が充実しているから』
『あんた学者になるのか?』
と俺が訊いたとき、アイツは少し寂しそうに笑った。
『なれたら、いいんだけど.....』
けれど俺達の友情はいつまでも続くものじゃなかった。オヤジが商売を終えて香港に帰ることになり、俺はアイツにそれを告げた。
アイツは、一言、ポソリと言った。
「エルミタージュに......一緒に行こう」
エルミタージュ美術館は、ロシア帝政時代のロマノフ王朝の宮殿だった建物を何代目かの皇帝が美術館にして、それからずっと美術品や工芸品の収蔵場所になっていた。
荘厳な造りの回廊を巡り、俺でさえ知ってるダ-ヴィンチやティツィアーノの名画に目を見張りながら、ふたりで無言で歩いた。
『これを見せたかったんだ.....』
アイツは東洋美術の展示されているフロアの片隅にある一幅の日本画を指差した。それは日本ではよくある観音菩薩の立像で、あまり有名な画家の作品ではなかったけれど、端正で優しい筆致で指先まで丁寧に描かれていた。
『...君に似ている.....』
アイツの言葉に俺は苦笑した。
『止せよ、似てないよ』
『なぜ?観音菩薩は男なんだろう?』
『だけど、俺はこんなにたおやかじゃない。俺がなりたいのは、こっちだ』
側には誰だかは忘れたが、四天王の立像があった。俺はオヤジにボスを支える男になれと言われていたから、間違いではなかったと思う。
俺達は展示室を出て庭を散歩したが、何となく言葉を探せずにいた時、ふいにアイツが言った。
『羽衣......か』
『え?』
『君のその背中の刺青は、君の羽衣なんだね』
『え?意味がわかんね』
大きな杉の木の下でアイツはきょとんとする俺に覆い被さるようにして、真剣な眼差しで言った。
『きっと、また帰ってきて。ここに、サンクトペテルブルクに帰ってくるって約束して』
アイツのあまりの鬼気迫る様相に、俺はビックリして黙って頷いた。
『約束だよ。....じゃないと僕は君の羽衣を取り上げるからね』
アイツはそう言って、そして......俺にキスした。実は俺にとっては初めてのキスだったんだが......イヤじゃなかった。たぶん約束は守れない。だから、アイツの思い出になるなら、別にいいか.....と思った。
アイツの目が、ブルーグレーの瞳が今にも泣き出しそうだったから.....。
ーまさかなぁ......ー
あり得ない。名前が同じでも、瞳の色が同じでも、このロシアには同じような人間が沢山いる。十億を超える人口がいる国だ。
少なくとも俺の知ってるミーシャは、ヤツのように冷血で鬼畜な男じゃない。穏やかでお人好しで、人殺しなんか絶対出来るわけがない。
まぁ最後に会った日のあの眼はさすがに怖かったが.....。
ーアイツはどうしてるんだろう.....ー
どこかの大学の助教とか、もしかしたら教授になってるかもしれない、と俺は思った。そしてあることに気づいた。
俺はアイツの名字を知らなかった。いや、最初に聞いた気もするが覚えていない。
まぁ別に知る必要も無かったし、今さらヤツに探してくれと頼む気も無い。
ーきっと、どこかで元気にやってるさ...ー
俺はもう昔の俺じゃない。会ったところで分かるわけがない。小さな溜め息が口から溢れた。
「どうした?」
背後からハイルの声が、俺を感傷的な気分から引き戻した。
「なんでもない.....」
俺はヤツの腕に呆気なく掴まり、耳を食まれた。ピクリと身を震わせ、ヤツを睨む。
「美術館には、いつ行くんだ?」
「週末にでも、デートするか」
低い響きの良い声が鼓膜をくすぐる。
「止めとけよ.....」
そういえば、アイツはどんな声をしていたか....俺は思い出せなかったが、ヤツの声に少し似ていたような気がする。
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