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ミハイルside 1~回想~
私は日程を整えると、ラウルをエルミタージュに誘うことにした。
それは私にとってもラウルにとってもひとつの『けじめ』の時だった。
私は車の中で仕事のチェックをしながら、正しくはチェックをする振りをしながら、過去に思いをはせていた。
大学の図書館の片隅で、一生懸命テキストに向かう、東洋の青年.....いや、私には少年に見えた。ぶつぶつと独り言を言いながら、ころころと表情が変わる。気づいた時には、近づいて声を掛けていた。
『君は日本人?』
『うん。混血だけどね』
彼は屈託なく微笑み、私をまっすぐに見た。不思議な鳶色の瞳。はっきりと強い光を放ちながら、とても優しく柔らかい。
『名前、聞いてもいい?』
私は少し躊躇いながら、だが勇気をふりしぼって訊いた。
『ラウル。ラウル-志築。後にヘイゼルシュタインてつくけど』
彼は最後の部分だけは少し口ごもった。私は手を差し出した。
『僕は、ミハイル。ミハイル-アレクサンドルフ......レヴァント』
私は彼の表情を盗み見た。私の名を聞くと、皆、一様に表情を変える。だが、彼はにっこり笑って.....微笑んで私の手を握った。暖かい、小さいが力強い手だった。
『初めまして。ここの学生?.....なんて呼べばいい?』
可愛い。つんと上を向いた鼻に、ちょっと意地っ張りそうなぽってりした薄紅色の小さな唇。
『ミ、ミーシャって呼んでくれ。....良かったらカフェでも行かないか?』
まっすぐに見詰められて鼓動が大きくなった。
『ありがとう。ちょっと疲れてたんだ』
彼はにこやかな笑みを浮かべて、私の隣に立った。日本人なら平均的な身長らしい。それでも、私より頭ひとつくらい小さい。が、鍛えているらしく均整の取れた体格をしていた。
カプチーノを飲みながら、彼は本当に嬉しそうに言った。
『誘ってもらったの初めてなんだ』
彼はビジネス-スクールの留学生であること、ロシア語はそれなりに話せるけど、あまり得意ではない....とこぼした。私は思い切って提案した。
『じゃあ、僕と勉強しないか?替わりに僕に日本語を教えて欲しい』
『いいよ。助かる』
彼は快諾し、初めはカフェで、段々と私の下宿で勉強するようになった。彼は真面目で熱心に学んだ。そして、私達は色々な話をした。彼の両親が早くに亡くなったこと、中国人の養父に育てられたこと。
『オヤジはすごく俺を大事にしてくれて。貿易商だから、外国語は出来なきゃいけないって』
日本語と中国語と英語、それにロシア語を教えてくれたという。
『でも、ロシアの学校にまで入れられるとは思わなかった』
彼は小さくはにかんで言った。
いつも彼は笑っていたが、哀しそうな寂しそうな顔を時々見せた。
一度目は、何時の頃かはわからない。私の下宿に来た彼は思い詰めた顔で、もう会わない方がいい......と切り出した。
『なぜ?』
と訊く私に、彼はうっすらと涙ぐみながら
『俺は、本当はヤクザの倅なんだ。オヤジは貿易商はしてるけど、香港のマフィアで...俺も刺青してる』
私は俄には信じられなかった。が、自分でも意外な言葉が口をついていた。
『見せて....刺青』
彼は力なく頷いて背を向けてシャツを降ろした。象牙のような滑かな肌に鷲が大きく翼を拡げていた。私は息を呑み、無意識に彼に強請っていた。
『触ってもいいかな』
『構わないよ』
私は彼の背にそっと指を触れた。生き生きとして今にも飛翔しそうな大きな鳥。力強く羽ばたこうとする彼にはとても良く似合っていた。
私は、思わずその背に口づけしていた。
彼はピクリと背を震わせて.....だが振りほどきはしなかった。
シャツを羽織直した彼の背を抱きしめて、私は言った。彼が私の側から飛び立っていかないように.....。
『大丈夫、僕も似たようなものだから...』
私はその時、私の彼に対する思いが友情ではないことに気付いた。
二度目は、彼の二十歳の誕生日だった。
養父がハバロフスクに仕事で出掛けている....という。私はうんと豪勢なディナーをご馳走したかったのだが、緊張して味がわからないから嫌だと断られた。結局、小さなケーキをひとつ買って、私の下宿でささやかに祝った。彼はとても嬉しそうで、サバランの洋酒に噎せる姿は本当に愛らしかった。私はとても幸せだった。
『ずっと君の誕生日を祝いたい』
と言ったら、はにかんで嬉しそうに笑った。
だが、私の願いは叶わなかった。
彼の二十二歳の誕生日のほんの少し前、彼は私に告げた。ー香港に帰る.....ーと。
私は天地が崩れ落ちそうだった。
『エルミタージュに行こう。.......一緒に』
私の精一杯だった。ふたりで私の大好きな観音菩薩の絵を見て、庭園で初めてのキスをした。
『必ず.....必ず、サンクトペテルブルクに帰ってきて』
私の言葉に彼は小さく頷いた。
ー約束は守られないかもしれない....ー
時が経つにつれ、私の心は不安と絶望に苛まれるようになった。私は苦しくて、哀しかった。碌に食事も取らなくなった私に、邑妹(ユイメイ)が盛大に溜め息をついて言った。
『欲しければ力ずくでも手に入れるのがマフィアよ。あなたはそのボスを継ぐの。強くなりなさい。.....彼が好きなら、強くなって手に入れるの。逃げちゃダメ。.....逃げたら何も手に入らない』
私は決意し、父の跡を継ぎ........そして彼を手に入れた。たとえ憎まれようと恨まれようと欲しいものは手に入れる。それがマフィアだ。
だが、私の欲しいものは......。
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