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第50話

「出掛けるぞ」  きっちりスーツ姿に身を包んだミハイルが俺を起こしにきたのは、朝もまだかなり早い時間だった。  俺はシャワーを浴び、ベッドの上に投げ出された細身のスラックスとシャツブラウスを身につける。勿論、両脚と右腕に仕込みのナイフは装備済みだ。 「銃は?」  ミハイルが投げてよこしたのは、ベレッタのボブキャットだ。 「ジャケットの胸ポケットでいい。ホルスターはいらない」 「了解」  俺はベルベットのジャケットを羽織り、銃を仕込む。ヤツが俺に平気で凶器を持たせるのは、俺の弱みを握っているから。レイラが息子があのガキがヤツの背後にいる限り、俺はヤツを撃てない。マフィアの報復の恐ろしさを俺はよく知ってる。  実際、あの後、何気なく周の様子を尋ねると、 『殺してはいない』 と澄まして言った。 『まぁ、子造りはもう十分だろう。誘惑に惑わされず仕事に専念できるようになったんじゃないか?』  俺はそれ以上訊くのは止めた。同じ男として、気の毒な話を聞くのは気が引けた。自業自得とはいえ、やはり同情は禁じ得ない。  ヤツは俺の身支度が終わったのを確かめると、ニコライに短く言った。 「車を廻せ」  スモークの入った防弾ガラスのベンツ.....たぶん鉄板が入って、強度は装甲車並みだ。ニコライがハンドルを握り、邑妹(ユイメイ)が助手席に座る。邑妹(ユイメイ)は、美人でスーツ姿になるとベテラン秘書の風格がある。 『あんた、格好いいな』 と素直に誉めると、少し照れて、 『ママって呼んでもいいわよ』 とか言ってたが、ミハイルの護衛を買って出るのは、彼女にとってヤツが本当の息子のように大切なんだろうなと思う。たぶんヤツを育てたのは、邑妹(ユイメイ)。......頼むからもう少し常識人に育てて欲しかった。せめて横に侍らすのは金髪美女にしなさいって教えて欲しかった。  俺がボヤくと、苦笑いして言った。 『あなたは、特別だから仕方ないわ』  特別って何だよ......。 「もうすぐだぞ」  車内でコーヒーを飲みながら、ひとしきり会社の書類に眼を通し、決裁を済ませ、モバイルで指示を飛ばすヤツは紛れもなく優秀なビジネスマンだ。 ー畏れ入るぜ....ー  溜め息混じりに横顔を眺める俺に、いきなりキスとかしなきゃ、立派なCEO だ。  長い車中、所在なさそうな俺の膝に、ぽん.....と日本語の分厚い企画書を投げて寄越し、 『翻訳が間違いないか、チェックしてくれ』 と言い出した。 『訳したのは部下だが、言い回しが気になってね』  さすがに大企業のトップだけはある。まぁ部下も優秀なようで、さしたる問題の箇所は無い。 『大丈夫じゃないか?.....いいプランだ』  日本企業とのシベリアの共同開発......。二十世紀の軋轢を乗り越えようというわけか、大したものだ。  俺が感心したように呟くと、ヤツは珍しく嬉しそうに微笑った。  数時間、車を飛ばして辿り着いた先は、あのサンクトペテルブルクだった。 「懐かしいだろう.....」 「変わってないな.....いや、変わったか」  歴史ある古風な街並みの眺めの向こうに最新のビジネス-タワーの建設が進んでいる。二十世紀の混迷から突き抜けていくこの国の姿に重なればいい、と俺は思った。車は、俺の住んでいた下町の街区を抜け、大学の前を過ぎて、ゆっくりと止まった。 「着いたぞ.....」  壮麗な門の内、ロマノフの宮殿が威厳をたたえて、俺達を出迎えた。エルミタージュ美術館だ。

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