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第51話

 ミハイルの後ろについて豪奢な装飾の回廊を歩く。厳粛な空気の漂う空間が妙に似合う背中は、妬ましさや羨ましさを超えて、ただ溜め息が出るばかりだ。 「どうだ、エルミタージュに来た感想は?」 いきなり振り向いてヤツが訊いた。俺は柄にもなくドギマギして言葉を探した。 「相変わらず凄いな......。展示物とか、展示場所は少し変わっているみたいだが.....」 「以前にも来たことが......?」 「一度だけ......」  俺はアイツの顔を思い出した。思い詰めたような、泣きそうな横顔......。 ーアイツは本当は何を言いたかったんだろう......。ー  ぼんやりと思い巡らせながら回廊を巡る。  いつの間にか、俺達は、あの東洋美術の展示室に来ていた。  周囲の展示物は少し変わっていたが、あの観音菩薩の画幅はまだそこにあり、静かな微笑みを浮かべていた。俺は思わず歩み寄り、じっと見つめていた。 「お前に似ているな...」  ミハイルがポソリと呟いた。 「以前に、同じことを言われたことがある....」  俺は、思わず後ろを振り向いた。薄暗い空間の片隅にアイツが立っているような気がした。あのはにかんだような、内気な微笑みを浮かべて、俺を見ているような気がした。だが、そこにいるのは、ミハイルだった。アイツと同じ名前の、同じブルーグレーの瞳の......。 「お前.....まさか.....」   「ラウル...」  言いかけたところで、ミハイルが小さな声で囁き、顎をしゃくった。  その先に立っていたのは.....アイツじゃなかった。 「レイラ......?」  見間違う訳もない。俺の懐かしい恋人だった女と幼い男の子と......そして俺の姿をした男ーかつて高瀬 諒だった青年ーだった。彼は、俺を見ると深々と頭を下げた。 「なぜ....?」 動揺する俺に、ヤツは小声で言った。 「香港はヤバくなってきた。日本に向かわせる。.....環境は整えてある」  するとレイラが、躊躇いがちに歩み寄り、俺に言った。 「少しお話がしたいの.....いいかしら?」  眼を向けると、ミハイルが黙って頷いた。俺はレイラと子供ともうひとりと庭に出た。  話の口火を切ったのは、あの青年だった。 「ありがとうございました......」  彼は再び深々と俺に頭を下げた。 「いや、別に。.....けど、なんであんたがここにいるんだ?」 「あの人の指示で....あの......」  怪訝そうな俺に口ごもる彼の様子に、レイラが意を決したように口を開いた。 「ラウル......。私、聞いたわ」 「お前!」  思わず怒鳴りそうになる俺をー子供の前よーと制してレイラが言った。 「彼を責めないで。.....最初、彼を見た時、私も驚いたわ。......初めは記憶喪失って聞いてたけど、すぐ分かった。あなたじゃないって.....」 「すいません.....」  彼が小声で詫びた。レイラは彼に小さく笑いかけて言った。 「彼が香港に迎えに来て.....しばらくマレーシアにいたんだけど、マレーシアも危険になったからって....。ねぇラウル、彼はあなたじゃないけど、私は彼と暮らしたいと思うの」 「レイラ?」 「色々、聞いたわ。.....彼も被害者なのよ。だから、彼がちゃんと立ち直れるまで.....一人の男性として立派にやっていけるように、支えてあげたいの。この子も懐いているし.....」  俺に言葉は無かった。彼の脚にしがみついて、俺を見上げる子供の眼差しと、彼のズボンを固く握りしめる小さな手が俺の言葉を奪った。俺は頷き、やっとのことで言葉を絞り出した。 「気をつけて.....行けよ。出来れば、その.....彼は少し整形したほうがいい。......俺の顔は知られているから」 「分かったわ」  レイラは頷いて、ほっとしたような笑顔を浮かべた。 「もう行くわね......」  彼と子供を促し背を向けたレイラに、俺は声が詰まった。 「レイラ.....」  俺は振り絞るように彼女の名を呼んだ。彼女は振り向いて、泣きそうに顔を歪めて言った。 「愛してたわ、ラウル.......ありがとう」  恋の終わりを告げる声は掠れて、なお俺の胸を抉った。俺は去っていく三人の背中をただ見つめていた。 「帰るぞ」  ミハイルの声に振り向いた俺は、もしかしたら涙ぐんでいたのかもしれない。ヤツは俺の頭を抱き抱え、額にキスした。  俺は、ヤツの顔を見上げ、そして訊いた。 「あんたが、アイツなのか....?」  ヤツが........頷いた。

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