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第55話
それは全くの想定外だった。
俺にとってもミハイルにとっても変わらない日常のちょっとした悪ふざけに過ぎないはずだった....。あいつが姿を現さなければ...。
「お前って、本っ当に悪趣味だよな.....」
俺は向かいの席でしれっ....とアイス-コーヒーを啜るヤツを睨んだ。
今日の俺のスタイルときたら、女物の黒のロングドレス。背中は、刺青のギリギリの所まで切れ込んでいて、ごく薄い生地なので、刺青が何気に透けて見える。裾だってスリットが深く切れ込んで、脚にぴったりしたレザーパンツの仕込みがかろうじて隠れる程度。細い長い袖はレースで、内側に刀子は仕込んでいるが、お上品に長手袋しているように見える。靴は装備のため、当然ブーツだ。邑妹(ユイメイ)にバッチリフルメイクまでされた。
『出来たわよ~、見てごらんなさい』
と差し出された鏡の中には色気虫の姉ちゃんがひとり。
『俺じゃない。これは絶対俺じゃない』
とぶつぶつ言っている間に薄物のストールを巻かれ、つば広の帽子まで被らされた。
『パッドは入れたけど、やっぱり胸だけは残念ね~』
と悔しがるのは止めてくれ、邑妹(ユイメイ)。俺は男だ。
『貧乳のほうが可愛げがあっていい』
って、違うだろう、ミハイル!
そんなとてつもなく恥ずかしい格好で、俺はこの日、旧市街のカフェに引っ張り出されたのだ。
『とりあえず、コーヒー一杯付き合え』
というミハイルの台詞にしぶしぶ引き摺られてきたが、人の視線が痛い。振り返ってまで見るな、馬鹿!
晒し者にされる恥ずかしさは並みの羞恥プレイの比ではない。
「なんの罰ゲームだよっ!」
とアイス-マキアートを前に不貞腐れる俺に、逆にニヤつきながら、
「何にして欲しい?」
とか茶化されて尚更不貞腐れる。止めて欲しい。それはヤツにとっては色々あるだろうが、真剣に凹む。
「帰ろうぜ......俺、もぅやだ」
マジで泣きそうな気分だというのに、ヤツときたら上機嫌この上ない。
「なぜ?.....みんな、お前に見惚れているじゃないか。ちょっと声を掛けてみたらどうだ。口説いてくるかもしれんぞ」
「冗談止めろ。善良な一般市民を巻き添えにするな.....だいたいお前だってどうかしてる」
「何が?」
「俺は男だぞ。まったく、何を考えてんだ」
キリキリと眉を吊り上げる俺に、怯みもせず余裕の笑みを浮かべるミハイルが本当に憎たらしく思えた。
「私の可愛いパピィを自慢したいだけさ、いけないかね?」
「あのなぁ.....!」
と言いかけて、ふと道路のあちら側を見て俺は硬直した。ミハイルも今までとはまったく違う顔つきになり、何気に周囲にも緊張が走った。
そう、道路の向こうからあの男が......死神が悠々と近寄ってきたのだ。周囲はミハイルの部下達に囲まれているのに、警戒する気配もない。
「ごきげんよう、レディ」
死神....崔伯嶺は、騎士よろしく大仰な身振りで俺に凍りつくような笑顔で笑いかけた。
「ロシアくんだりまで何の用だ、崔。お前との取り引きは無い筈だが」
ミハイルが不機嫌そうに、だが抑えた声音で言った。崔は不気味な微笑みをたたえたまま、地獄の底から響くような声で答えた。
「私は美しいものが好きなのでね。ロシアの至宝を観賞させてもらいに来たのだよ。......レヴァントの秘宝まで拝見できるとは、私は実に幸運だ」
ミハイルは、ふっ.....と鼻で笑い、だが威嚇のオーラを最大限に放って言った。
「お前のような奴に見せるのは勿体ないんだがな」
「おや......東洋の美しい品々を奪い去っていくのは西洋の蛮行の最たるものだと思うがね。......そうは思いませんか、レディ?」
「俺はレディじゃねぇ!」
ミハイルを横目で見ながら、話しかけてきた崔に、俺は思わず身構えた。目の前で大蛇がシュウシュウと不気味な息を吐きかけてきているような感覚だった。思わずバッグの中のベレッタを握りしめた。
「これは失礼.....ミスター-レヴァント、レディはご機嫌が悪いようだ」
崔は皮肉めかして口許を歪め、眉をひそめた。ミハイルは威嚇の視線をなお強め、だが悠然と言い放った。
「ウチのパピィは繊細なんだ。怪しい輩には近付いてもらいたくないな」
「それは残念」
崔はす.....と無表情に戻ると、俺を一瞥して背を向けた。
「いずれまた、お会いしましょう、レディ。是非、私のコレクションをお見せしたい」
「遠慮しておく」
俺が吐き捨てると、崔はクックッ.....と肩で笑い、待たせていた車に乗って走り去った。
「なんで追わないんだよ。殺っちまえばいいのに.....」
不快感で満タンの俺がボヤくと、ミハイルは憎々しげに口許を歪めた。
「街中で銃撃戦をするわけにはいかない。私がここで部下に命令を下せば、奴に器を見下される」
「あの野郎....」
平静を保ってはいたが、ミハイルはかなり不快だったらしい。コーヒーを飲み干してカフェから戻ると、早々に俺にのしかかってきた。
ー八つ当たりすんな!ー
と心の中で呟きながら、俺は崔のぞっとするような眼差しを思い出した。
ーやはりアイツは死神だ.....ー
俺はミハイルの頭を硬く抱き抱えていた。
ー俺が守らなきゃならない......ー
なぜかそう思った。
大天使ミカエルの盾を思い浮かべた。
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