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第54話
それからしばらく俺達の日々は平穏だった。ヤツのワガママは相変わらずで、いやもっとワガママになったように思えなくもないが。
サンクトペテルブルクに住むようになってから、ヤツは以前よりもっと仕事に打ち込むようになり、俺はベッドの相手だけでなく、少しずつ仕事の手伝いをするようになった。.....まぁ簡単な翻訳くらいだが。
もうひとつ、俺のささやかな我が儘として、邑妹(ユイメイ)とミハイルに、「マスター」とかいう他人行儀な名称を使うのは止めてもらった。邑妹(ユイメイ)が母親代わりだったなら尚更、表向きはともかく、プライベートな場面では、ミハイルの子どもの頃のように、名前で呼んでやってくれ、と頼んだ。
『何故?』
と二人とも怪訝そうな顔で眉をひそめたが、俺は少しでも居心地の良い暮らしにしたかった。
『俺がミーシャと呼びたいから、さ』
と言うと『仕方ない』と承諾してくれた。が、眉をひそめた顔の頬が二人とも少し緩んでいたのは見なかったことにした。
ニコライから時折、日本に行ったレイラ達からの便りを見せてもらうことも許された。動画の中ではしゃぐ息子もレイラもあの男も幸せそうで.....ミハイルの言う『最適解』を認めざるを得ない。
ー俺は終わって、始まったんだ.....ー
今、俺とミハイルは以前とは違うモノを見ている。
俺はヤツの胸元に顔を埋める。ヤツの鼓動が聞こえる。力強く熱く脈打つ生命の音に身を委ねる。俺の鼓動を重ねて眼を閉じて、深く息をする。
「あんたは、生きてるんだな.....」
ヤツは苦笑して、俺の頬に触れる。
「何を言い出すんだ、急に......」
「だって、あいつは生きているとは思えない....」
-「崔か.....?」
俺はこくりと頷く。
「あいつ......死神みてぇだ」
「死神か........言いえて妙だな」
ミハイルは大きく息をついて、俺を抱きすくめて、訊いた。
「あいつは幾つだと思う?」
「幾つ.....って、歳か?四十くらいじゃないのか?」
訝りながら俺が答えるとヤツは眉をひそめて言った。
「七十は超してる、たぶん......」
俺は驚いて目を剥いた。
「七十って......嘘だろ?!」
「嘘じゃない。......何度も親父と殺り合ってる.....」
ミハイル曰く、先代が麻薬の売買を扱っていた時、他のファミリーに加担して、随分とシマを食い荒らされたという。もっとも、そのファミリーは今は無く、レヴァント-ファミリーは麻薬の扱いも止めた。
「あいつは臓器移植や神に背く行為を繰り返してる.....」
崔のファミリーは人身売買も生業にしていて、薬漬けにして売春を強要させるだけでなく、臓器の売買やそれに類する信じがたいこともしている.....とミハイルは言った。
「許せねぇ.....」
極道にだって、やってはいけないことがある。俺はミハイルの顔を見つめた。
「するんだろう......龍退治」
俺は昔見た絵画を思い出した。大天使ミカエルが、悪竜を踏みつけている絵だ。
「あぁ.。」
ミハイルは強い眼差しで頷いた。
「大天使.....いや、魔王の龍退治か」
俺はボソッと呟いた。
「何か言ったか?」
怪訝そうなヤツの唇に口付けて囁いた。
「手伝わせろ」
「ダメだ」
ヤツは素っ気なく言い放つと俺をベッドに押し倒した。
「なんで?!」
むくれる俺の顎を掬い上げて、ヤツはニヤリと唇を歪めた。
「観音菩薩は厨子の中で大人しく見守ってるもんだ」
「なんだそれ.....?!」
だが、そうは出来ないだろう.....と俺は思った。崔とミハイルの緊張は高まっている。ミハイルはロシア国内の奴のシンジケートをことごとく潰し、崔に加担した別のファミリーを根こそぎ殲滅した。
一方の崔は、アジア全般に覇権を拡げつつあり.....香港の俺のファミリー、周玄宝率いる楊ファミリーは、ミハイルの支援でようやく名目を保っていた。
ーラウルさえいれば.....ー
とか周や他の奴らがボヤいているらしいが、今さら後の祭だ。お前達の知っているラウルはもういない。
今の俺は、ミハイルの、多感な魔王の守りで忙しい。
俺の腰に刻みつけた極楽の華を愛おしそうになぞる形の良い指が銃爪を引く時、数多の悪党どもが地獄に落ちる。
ーさしあたっては......ー
あの死神を冥土に叩き落とす。それが、俺とミハイルの『使命』だ。
「来て.....」
俺は俺の意志で、ブルーグレーの瞳を引き寄せる。それがどんなものかは知らないが、『その先』の未来を引き寄せるために。
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