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第56話

「あ.....」  目を開けると、ミハイルが俺を見下ろしていた。 「大丈夫か?」  ブルーグレーの瞳が揺れている。何をそんなに心配しているんだ。 「どうかしたのか?」 「うなされていたぞ......」  額に手をやると、びっしょりと汗をかいていた。異様に身体がだるい。 「悪い夢でも見ていたのか?」 「あのなぁ!....これ以上に悪い夢があるのか?」  俺は身体を起こし、手の甲で額を拭った。あいつが、お人好しだったミーシャが、氷の魔王と二つ名を持つロシアン-マフィアのボスだった。俺はヤツの怒りを買って銃で撃たれて、瀕死のところを日本人のガキと身体を入れ替えられて......今じゃヤツのオンナ扱いだ。俺は上目遣いでヤツを睨んだ。 「お前なぁ.....何度も言うようだが、俺は男だ」 「知っている。だが、私の『女』だ。私の腕の中で可愛い声で啼く、私のパピィだ」 「だから、それは止めろって....」  抗議する俺の唇にヤツの唇が重なる。啄むように何度も軽く触れられているうちに、頭の芯が痺れてくる。ゆっくりと俺の口の中にヤツの舌が侵入してきて、歯列をなぞり、舌を絡めて吸い上げる。俺は、ぼうっ....としてきて身体が熱くなってきて、知らぬ間にヤツの首に腕を回して、ヤツの唇を貪っている。 「ラウル、愛している.....」  ヤツは俺に覆い被さり、うっとりと俺の眼を見つめる。深い優しい眼差しが、次第に欲情に濡れ、俺の肌に触れてくる指が俺の身体の奥底の焔を呼び起こす。 「ミーシャ.....」  俺はヤツの背に腕を回し、力強く張った筋肉の隆起に嫉妬する。 ー俺だって、以前は.....こいつには負けるかもしれないが.....ー  前の身体の俺は、それなりに鍛え上げ、羨望の眼差しで見る奴らもいた。それが今は、女のように細く、ヤツの片腕の中にすっぽりと収まってしまう。 「俺が前の身体だったら、お前は俺を抱いたりしなかったろう?前の俺だったら...」  悔し紛れに吐き捨てる俺に、ヤツはしれっと言う。 「抱いたさ。どっちであっても、ラウルはラウルだ。抱かせてくれなかったのは、お前だろう......」 「なっ......!」  赤面する俺の胸の突起をヤツの指が抓りあげ、俺はぴくりと身体を震わせて、背を反らす。 「可愛い.....可愛い私のラウル」  耳許でヤツの声が甘く囁く。 「お前の全ては私のものだ。......だから、何か苦しいことがあるなら、私に話してくれ。.....私はお前を守りたいんだ」  お前はちっともわかっていない。俺が苦しいのは、お前に守られなきゃいけないことだ。レイラや息子や仲間達を守ってきた、守らなきゃいけない俺が、お前に守られてる.......男なのに。 「大丈夫だ。自分のことくらい自分で守る!」  俺は苛立ち、ヤツを押し退けようとした。が、ヤツの両手が俺の手を掴んでシーツに押し付ける。力強い、大きな掌.....今の俺には無いもの....俺は悔しくて、泣きそうになった。 「ラウル.....わかってくれ。お前はひ弱な訳じゃない。魅力的過ぎるんだ.....あの崔だって、お前を狙って.......」  ヤツの口からその名が出たとき、全身に悪寒が走った。あの死神のような不気味な笑みが浮かび、俺は身震いした。 「その名前は....聞きたくない。あんな死神みたいなやつの話は聞きたくない」  全身から一気に血の気が引いていく気がした。いや、実際血の気が引いていたのかもしれない。ミハイルの両腕が慌てて俺を強く抱きしめた。 「済まない.....悪かった」  ミハイルの体温にくるまれて、ヤツの匂いに包まれて、俺はほうっ......と息をついた。ミハイルは......温かい。冷え冷えとした氷の面の奥に暑苦しいほどの熱を隠している。それは俺のプライドを溶かし意地を溶かし、俺を焼き尽くす。 「いいんだ。大丈夫だ、お前がいるから....」  俺はヤツに口づけし、ヤツの胸に顔を埋める。分厚い胸板の奥から力強い鼓動が聞こえる。 「ラウル......」  ヤツの掠れた声が耳を掠める。俺はぐずぐずに蕩け出す俺を留められない。 「抱いて......」  俺は瞼を閉じ眼を瞑る。ヤツに抱かれ、ヤツに貫かれて歓喜の声を上げる自分を、逞しい胸に取り縋り、淫らに喘ぎ、ヤツを強請る自分を見ずにすむように。      俺は........ヤツに、ミハイルに囚われて心を震わせている自分をまだ見たくはなかった。

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