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第57話

「ラウル、ちょっといいかしら?」  トレーニングを終えて、一息ついていると邑妹(ユイメイ)が声を掛けてきた。いつもとはちょっと違う雰囲気に俺は何気に戸惑いを覚えた。 「ゆっくり話がしたいの。......私の部屋に来て」 「いいけど......あいつが怒らないか?」 「大丈夫よ」 邑妹(ユイメイ)は、ほっとしたように微笑んだ。  ミハイルのサンクトペテルブルク郊外の屋敷は俺がそれまで暮らしていた別邸とは比較にならない広さだった。  マフィアの本拠地としての機能を持った本館とミハイルのオフィス.....いわゆる『本社』と言われている建物に移動するためのヘリポートー実際にはオフィスとはトレーニングルームの奥から地下通路で繋がっているらしいーの他に俺がいるミハイルの私邸部分と邑妹(ユイメイ)やタニア-ニコライ-ヴォロージャの姉弟達が棲むコテージのような別棟が独立して建っている。  彼らのコテージと本館は別な通路で繋がっていて、ミハイルの私邸からも別な通路で本館に繋がっている。  煉瓦を模した壁の外、より街に近い領域にもマフィアの部下達の詰所のような建物が幾つもある。その外には高い塀と電気柵、赤外線スコープが張り巡らされており、それと不振な飛行物の侵入を防ぐ電磁波のドーム.....まさに要塞だ。  それぞれのゲートや門やドアには厳重にセキュリティがかけられており、本館の入口は、体内に埋められたマイクロチップ、ミハイルの私邸の入口はそれに加えて網膜認証まで要求される。 『どんだけ先端技術の無駄遣いしてるんだ?』 と俺が呆れるとヤツは、ふん;....と鼻を鳴らして言った。 『ここのために開発した技術を社会に提供しているんだ』  俺はその中の一つ、邑妹(ユイメイ)のコテージに招待された。その日は天気も良かったし、俺達は、ゆっくり芝生を歩いて、コテージに向かった。ふと頭の上を黒い小さな機体が掠めた。 「ドローンは侵入できないんじゃないのか?」 と俺が驚いて訊ねると邑妹(ユイメイ)は、くすっと笑った。 「あれはニコライが監視用に飛ばしてるの。映像はAI がチェックして、異変があればニコライのチームに情報が伝わるわ」  流石はIT 部門のトップディレクターだ。  ニコライはミハイルを守るために全ての技術と知能を注ぎ込んでいる。その忠誠心はある意味凄まじい。 「さぁ入って」  邑妹(ユイメイ)のコテージは、小ぢんまりとして整頓されているが、暖かみのある設えだった。何気なくアジアン-テイストが取り入れられているのが、ほっとする。ヤツのシノワズリとはひと味違う。 「まずは、座って。お茶入れるわね」  あちこち見回している間にガラスのポットの中に花が咲いていた。茉莉花の工芸茶というやつだ。爽やかなすっきりとした香りが心地よい。ガラスの器に金色の波が揺れた。 「邑妹(ユイメイ)は本国にいたのか?台湾?」  俺が訊ねると、邑妹(ユイメイ)は首を振った。 「ベトナムよ。私の両親は華橋なの。......戦争で両親を亡くして、孤児になった。七歳の頃よ。従軍していたミハイルの父親が、連れ帰ってくれたの。彼も独りぼっちだったから.....」  ミハイルの父親の親は帝政ロシアの軍人だった。ロシア革命では革命軍に参加したが、後の思想教育に反発してシベリアに送られたという。母親も病気で亡くなった。邑妹(ユイメイ)は、ミハイルの父親に連れられて寒い北の国にやってきた。 「彼は彼の両親を殺した政府を憎んでた。そしてこの国を憎んでた......でもミハイルは、ミーシャは違うわ」 「違う?」 「ミーシャはこの国を愛してる。ミーシャがマフィアを継いだ一つの理由は、この国を変えるためよ。ちょうどペレストロイカで自由化の波が起きて、ソ連邦が崩壊した....。彼が育ったのはその変容の時代だった。.....彼はその歪みに生まれた闇を糺すために自分の手を汚すことを選んだの」 「闇を糺す......?」 「時代の変化に混乱する社会で、若者は麻薬に溺れ、犯罪に手を染めていた。彼は.....ミーシャはその闇の部分にも秩序をもたらさねばならないと思ったの。彼は麻薬の扱いを禁止して、ロシア国内の麻薬シンジケートを片端から潰した。人身売買で得られてきた娼婦達を保護して、搾取を止めさせて、まともな仕事をさせるために起業して発展させた」 「そう.....なのか」  俺は、それは知っていた。ロシアのマフィアの質が変わった。変えたのはレヴァントの新しいボスで......古い時代のマフィアとは違って冷徹で情け容赦無い.....と。 「ねぇ、小狼(シュオラァ).....彼を解ってあげて。彼は自分独りの夢の世界からみんなのための夢の世界へ踏み出したの。方法はどうあれ、彼はみんなが幸せな社会を作りたいと思ってる。.....彼にその勇気をくれたのは、小狼(シュオラア)あなたなの」 「俺?...なんで?」 「彼が.....母親を喪ってから、初めて愛した人だからよ。あなたに側にいて欲しいから。あなたに褒めてもらえる人間になりたいから.....って」  邑妹(ユイメイ)の言葉に俺は溜め息をついた。 「方向性が間違ってないか?.....俺は学者のミーシャのほうが、よっぽど尊敬するぜ?」 「でも学者のミーシャの側にあなたはいてくれないでしょ?彼はあなたに側にいて欲しいのよ。あの子はとても寂しがり屋なの。ね、解ってあげて」  俺は言葉を失った。傍らの古い写真立てには、邑妹(ユイメイ)の傍らで暗い眼をした少年が、じっとこちらを見ていた。何も信じない.....頑なに心を閉ざした、十歳そこそこの孤独な少年......それがあのミーシャとは思えなかった。アイツはシャイではにかみ屋で、けれど優しい眼をしていた。 ーあなたは特別なのよ.....ー  俺は、以前に邑妹(ユイメイ)が口にした言葉を思い出した。  そして、もうひとつ.....。 『私は戦争で殺された者達の復讐をしているだけだ。彼らの苦しみを味あわせてやる』  地の底から響くような声、体温の全く感じられない死神のような顔.....そして.....。 「痛ぅ.....」  激しい頭痛と吐き気がこみ上げて、俺の思考はそこで途絶えた。 「どうしたの、小狼(シュオラア)!...大丈夫?」  邑妹(ユイメイ)が驚いて、顔を真っ青にして叫んでいた。 「大丈夫.....だから...」  俺は朦朧とした意識のなかで、誰かがドアをノックする音を聞いた。  そして、駆け寄ってくるヤツのミハイルの顔.....。 「どうした?ラウル大丈夫か?!」  ヤツの両手が俺の肩に触れ、抱きしめ......俺は気を失った。

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