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第58話
ひとりの男が誰かと言い争っている。相手は数人いるらしく、現地語らしい言葉が幾つも飛び交っている。眼を凝らすと、男の傍らには服をビリビリに引き裂かれて全裸同様の姿で床に横たわる、血に染まった若い女性の...死体。恐怖に目を見開き苦悶の形相で、こちらを見たまま、息絶えている。
『.............?』
男が何か叫んだ。
『私は戦争で殺された者達の復讐をしているだけだ。彼らの苦しみを味あわせてやる』
黒髪のリーダーらしきひとりが訛りの強い中国語が答える。地の底から聞こえてくるような不気味で冷たい響き。まるで幽霊が喋っているかのような.....。
そして男が血飛沫を上げて倒れ、黒髪の男がくるりとこちらを見た。人形のように美しいが、まったく生気を感じない。ニヤリ..と紅い唇が微笑い、ラタンの隙間からこちらに銃口を向けた。
ー死神だ.....殺されるー
ぎゅっと目を瞑った。と、その時、近くで大きな爆発音がして...死神のような男は傍らの誰かの呼び掛けに、小さく舌打ちをして慌ただしく立ち去った。
恐怖に戦きながら身を強ばらせていると、誰かが室内に足早に入ってきた。血塗れの男のポケットを探っている。ふっと手が止まり、男の指が俺の隠れていたラタンのチェストを指した。
足音が近づき.....チェストの蓋が開いた。恐る恐る顔を上げると、オヤジの顔...まだ若い。
『無事か。逃げるぞ』
オヤジは俺を抱き抱え、部屋を出ようとした。俺は部屋の中に眼を向け、叫びそうになった。.......そして俺の意識は途絶えた。
再び目を開けた時には、俺は知らない場所にいて、オヤジが心配そうに俺の手を握りしめていた。
『ラウル、大丈夫だ。私がいる。私が...』
俺はオヤジに抱きつき、身を震わせた。
『死神が来た。死神が......』
オヤジは俺を抱きしめて、何度も何度も頭を撫でてくれた。
外には眩しいばかりに陽が降り注ぎ、天井のファンが乾いた音を立てていた。
ーあれは.....ー
俺はゆっくりと目を開けた。辺りはすでに薄暗くなっており...見上げた天井にファンは無く.手を握っているのは、オヤジではなかった。
大きな指の長い手が、片方の手で俺の手を握りしめ、もう片方の手で甲をそっと撫でていた。ブルーグレーの瞳が俺の顔を覗き込んでいた。
「Vater( と..う...さ...ん)?」
「違う。私だ」
ふわりと唇が重ねられ、俺はあらためて乱れて額にかかっている金髪に気づいた。
俺は瞬きし、もう一度、ブルーグレーの瞳を見つめた。
「ミーシャ....?」
「気がついたか。良かった.....」
整った薄い唇から似合わない大きな吐息が漏れた。俺が首を巡らせると、ベッドの反対側に邑妹(ユイメイ)の心配そうな顔があった。
「俺は.....どうして......ここは......?」
起き上がろうとすると、頭が鈍く痛んだ。邑妹(ユイメイ)が慌てて、俺の背に手をあてた。
「ここはあなたの部屋よ。あなたは私の部屋で突然倒れたの。.....ここにはミーシャが背負ってきてくれたわ」
「ミーシャが.....? 背負って.....?」
俺はあらためてヤツの顔を見た。顔が赤くなるのがわかった。
「気にするな。軽くて良かったよ」
まだ混乱気味の俺の頭を軽く撫でて、ヤツが言った。
「何があった?」
俺は記憶を手繰り寄せようとしたが、靄がかかったように何も思い出せなかった。頭を振り、重さを振り払う。
「何もない。....ただ話を聞いていただけだ」
ヤツはらしくなく不安げな顔つきで俺を見ていた。ブルーグレーの瞳が揺れていた。
「大丈夫だから.....少し眠れば、治るさ」
そう言って、俺はヤツの手をそっと外して、横になり、眼を閉じた。
「そうか......」
ミハイルが、静かに立ち上がる気配がした。
二人がドアの方に立ち去っていく。ドアが開く.....ふと足音が止まった。唐突にヤツが訊いた。
「ラウル、お前はドイツ語が出来るのか?」
「残念ながら全く、だ」
「そうか......」
静かに二人が出ていく気配がして、俺は大きく息をついた。
ーそうだ...どこかで.....ー
俺はもう一人、ミーシャと同じ色の瞳をした人間を知っている。ミーシャと同じように優しく俺を見つめていた。栗色のクセっ毛の髪....暖かい大きな掌.....。
ー父....さん.....?ー
俺はふっと呟いた。がそれ以上、何も思い出せなかった。
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