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第53話

「身が入るわね、ラウル」  サンクトペテルブルクの屋敷のトレーニングルームは以前の屋敷のものよりも広い。ストレッチを終え、体術の稽古を済ませ、刀子の精度を上げる自主練に没頭している俺に邑妹(ユイメイ)が、感心したように呆れたように言った。 「今いち、上手く当たらない」  俺は舌打ちしながら言った。標的に当たらないわけではない。当たるのだが、なんとなく自分の中でしっくりこない。原因は、わかっている。今一つ、この身体を『自分のもの』に出来ていないのだ。リーチも身幅も違うのに、つい以前の感覚で動いてしまうのだ。 「それはあなたがあなたを受け入れていないからよ......」  邑妹(ユイメイ)の言うことは正しい。俺は俺の今の身体を見る度にどうしようも無い違和感に襲われる。鏡に写った自分の顔や身体が自分のものとは到底思えないのも事実だ。 「ベッドの中でもそうなんじゃない?」  図星だ。ヤツと身体を重ねる度に、ヤツに抱かれて快感にうち震えて縋りついてしまうのはこの身体がそういう身体なんだ.....と俺は自分に言い聞かせていた。それはヤツが嫌いだからではなく、男でありながら男に抱かれて愉悦に啜り泣く自分を受け入れられない。俺はヤツの『女』にはなりたくない......それだけは譲れない。黙り込む俺に邑妹(ユイメイ)は、溜め息混じりで言った。 「そりゃあ、マスターのやり方も良くないとは思うわ。でもね小狼(シャオラァ)、マスターはあなたのことを真剣に好きなのよ。あなたが香港でマフィアの舎弟を従えて、一端の幹部になっていくのを、すごく悲しんでた」 「悲しむ?なんで?」  俺は元からヤクザの倅だ。オヤジと同じ道を辿るのは必然てやつだ。それに産みの親のことは分からないが、俺は俺を育ててくれたオヤジのことを恥じてはいない。度胸も気っ風も良くて、強くて情け深いー俺には最高の父親だった。 「あなたは一本気で真っ直ぐな性格だから、いずれ必ずぶつかることになる......。マスターはあなたを失いたくなかったのよ。初恋の人だし」 「初恋って.....俺は男だぜ!?」 「恋に男女は関係無いのよ、小狼(シャオラァ)。彼にとってあなたは唯一の存在なの。彼が一人の人間として求めた、たった一人の人なの」 「そりゃ可笑しいぜ。ヤツみたいに頭も見てくれも良くて権力も金もある男なら、寄ってくる奴はごまんといるだろ?」 「彼は、そういう人間が嫌いなの。あなたは何も無い、ただの学生だった彼に真っ直ぐに向き合ってくれた......だから彼は本当にあなたを放したくなかったの」    「そりゃ我が儘ってもんじゃないか?」  そのために俺は死にかけて、こんな女みてぇな奴の身体に入れられて......いや、全て忘れていた俺が悪いのか? 「そうよ。我が儘よ。彼にとって人間としての唯一の、ね」  苦笑しながら言う邑妹(ユイメイ)に俺は口を尖らせた。 「じゃあ、アイツは他には何も我が儘は言わないのか、しないのか?」 「えぇ。あなたのことを除いては、彼の内にあるのは支配者としての責務と誇り......だけだわ」  邑妹(ユイメイ)の言葉に俺はヤツの背中にずしりとのしかかる途方も無い重さを痛感した。そして俺自身にのしかかる重みを。 「小狼(シャオラァ)、彼が求めているのは、あなたの心、あなたの全て.....。わかってあげて」  おい、重すぎるだろ........。 「何を考えてる......?」  夜になってミハイルが俺のシャツをはだけながら、耳許で囁いた。熱い息をかけられて、それだけで腰が砕けそうになる。唇を重ね、互いの瞳の中を覗き込む。 「いや、あんたもたいがい重い男だな.....」 「重いさ.....」  ヤツはクスリと笑い、そして凄みのある眼差しを俺の胸にぐっさりと突き立てる。 「だからもう、逃がさない。.......ラウル、お前は私のものだ」  俺は溜め息をついて、ヤツの顔をじっと見つめる。 「俺はあんたの心が見えなかった......。だから簡単に返事をしちまった。.....済まなかった」  それは本当のことだ。だが、俺はあの時、ヤツの本当の気持ちに気付いていたら....知っていたら、いったいどうしただろう?.....それは俺にも分からなかった。 「いいさ.....」  ミハイルは囁くように言った。 「その代わり......二十歳からやり直しだ、パピィ。今度こそお前を俺だけのものにする...もう何処にも行かせない」  ヤツの匂いが俺を包む。タリズマンの深い薫りの中に自らを沈める。その奥底に潜むヤツの孤独を抱きしめる。 「好きにしろ.....」  ミハイルの首に手を回し、引き寄せた。 「俺には、お前以外、もう何も無いんだから.....」  俺は俺の唇でヤツにキスし、微笑んだ。  

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