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第60話
暖炉でバチバチと木のはぜる音がする。
ロシアの冬は長い。俺は殆ど白一色の景色を眺めては溜め息をついた。
ここサンクトペテルブルクは、冬の宮殿が置かれていただけあって、ロシアの中では温暖な方だが、それでも香港の色鮮やかな街に暮らした俺には雪の中に埋もれて過ごす時間は途方もなく長く冷え冷えとしていた。日本にも雪は降るが、俺を育んだ街には年に数回しか降らなかったし、融けるのも早かった。
そして、俺は時折、もっと極彩色の鮮やかな色彩に彩られた場所の夢を見る。照りつける太陽は何処までも眩しく、原色の毒々しいまでの赤や黄色の花が揺れ、緑の濃い大きな葉の影から、優しい笑顔が覗く。
『Vater(父さん)!』
俺は駆け寄り、捲り上げた袖から覗く逞しい腕が俺を抱き上げる。俺は父さんのブルーグレーの瞳を見つめる。......と風景はグニャリと歪んで、辺りは深い闇に変わる。無限に引き摺り込まれるような底無しの闇....。湿った、身の毛がよだつような笑い声が足許から沸いてくる。
『父さん、怖い.....!』
俺は恐ろしさにぎゅっと眼を瞑って必死で父さんにしがみつく。
「大丈夫だ......大丈夫だ、ラウル」
恐る恐る眼を開けると、ブルーグレーの瞳が俺を見つめている。だがそれは父さんのそれではなく......。
「ミーシャ........」
俺は、ヤツにしがみついている自分に気づいて。恥ずかしさに身を翻そうとした、
「すまん、寝惚けた」
「何を気にしてるんだ」
ふっと吐息が耳を掠める。
力強い腕は俺を抱き竦めたまま離さない。啄むように口付けられ、俺は鍛え上げた肩越しに窓の外に眼を移す。雪明かりの中に銀の尖塔が夜空に突き刺さっている。凍える空になお冷たく星がさざめく。
「私はお前の『男』だ。縋りつけ。」
熱い腕が俺を抱きすくめる。首筋に顔を押し付けると、幽かにタリズマンの深い薫りがする。そして、濃い雄の匂い.....心地よい酩酊が俺を包み、俺は大きな背中に手をまわし、ぎゅっと抱き締める。
「お前は不思議な男だ。酷いのか優しいのかわからない」
俺が吐露するとヤツは俺の頭を撫でながら真顔で言った。
「お前を愛しているだけだ。どうしようもなく.....な」
「意味がわからない」
口をへの字に曲げる俺にヤツは苦笑した。
「そのうち分かるさ.....」
「最近......」
俺はヤツの鼓動に耳を寄せながら呟いた。
「父さんの夢を見るようになった」
「父親の?.....趙の夢か?」
「そうじゃない......」
俺は自分を奮い起こして、言った。
「俺の実の父親だ.....優しい人だった」
誰かに撃たれて.....あの極彩色の世界を血で染めて....死んだ。そして、俺の記憶の中の父さんは.....。
「お前と同じ眼をしていた」
「そうか....」
ヤツは眼を細めて、じっと俺を見た。額に口付けが落とされる。
「お前は生きてる....安心する」
父さんは、もう俺を見てはくれない。怖かった。極彩色の景色を見つめたまま、父さんの時は止まった。
だが.....ミーシャは、こいつは生きている。この白く霞んだ世界の中で、力強い鼓動を刻んでいる。ブルーグレーの瞳で俺を見つめている。
ーずっと生きていてくれ....ー
素直にそう思った。
「母親は?」
ヤツが聞いた。
「覚えてない.....」
雪がまた降り始めていた。
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