67 / 106

第63話

「済まなかった...」  俺は数日後、トレーニングルームで真剣に邑妹(ユイメイ)に詫びた。 「俺が軽率なことをしたばかりに、ミハイルを怒らせちまった.....」  邑妹(ユイメイ)は、まだ血の気の戻らない青ざめた顔で、首を振った。 「あなたのせいじゃないわ、小狼(シャオラァ)」 「でも、あれからずっと元気がない.....」 俺はなんとか邑妹(ユイメイ)を慰め、励ましたかった。だが、邑妹(ユイメイ)は、小さく笑って首を振るばかりだった。 「本当にあなたのせいじゃないの、小狼(シャオラァ)。.....私が迂闊過ぎただけなの」  そして、トレーニングルームのドアを出ようとして、ふと俺を振り返り、小さく呟いた。 「小狼(シャオラァ).....ミーシャをお願い......」  俺にはまだその時、その言葉の意味が分からなかった。  あのパーティーがあったのは、その数週間後だった。主催はある政府の高官で義理でも顔を出さねばならないという。 ーまたかよ.....ー 「気乗りはしないが、顔を出すだけだ」  スワロフスキーを散り填めた白の細身のドレスは、スタンドカラーで露出の少ない、極薄の防弾チョッキ入りだ。PPSも刀子もしっかり仕込んだ。が、問題はそこでは無かった。  モスクワの一流ホテルの庭園を貸し切りにしたガーデンパーティーで、さりげなくニコライやタニア、邑妹(ユイメイ)もガードに紛れ込んでいた。....にも拘らず、あの男が入り込んでいたのだ。 「ミーシャ.....あいつがいる」  小声でミハイルに耳打ちすると、ヤツも無言で頷いた。しかもあいつは、崔伯嶺は着飾った賓客の間を幽霊がすり抜けるようにこちらに近寄ってきたのだ。緊張が走った。 「ご機嫌よう、レディ。私の贈り物は気に入っていただけましたかな?」  崔はあの凍りつくような笑みを浮かべて、俺とミハイルを見据えた。俺は一瞬、硬直したが、側にはミハイルがいる。息を整えて睨み返す。 「悪いが、俺の趣味じゃない」 「これは失礼.....。お気に召しませんでしたか」  崔は首を少し歪めて、だが不気味な笑みを崩さずに言った。 「レディにはドレスよりチョコレートのほうがよろしかったかな?.......今度はベルギーの最高品質のものを用意させましょう」 「毒入りのチョコレートなんぞ、いらん。私のパピィに許可なく物を贈りつけるのは止めていただきたい」  ますます眉のつり上がる俺とミハイルを見て、崔は楽しそうに笑った。 「これは失敬。レヴァント氏は随分とレディにご執心なようだ。.....だが、私はこちらのレディのためにとっておきのプレゼントを用意させていただいているのだがね?」 「とっておきのプレゼントだと?」  嫌な予感が胸を掠めた。 「特大の宝石箱.....百万ドルの夜景を貴方に差し上げたいと思っているのですよ」 「随分と陳腐な口説き文句だな」  ミハイルが揶揄するように言うと、崔はふっ.....と鼻で笑った。 「私はその辺のジゴロではない。レディ、あなたの故郷はとても『キレイ』になりましたよ。虫ケラどもはすべて退治した。女神が降臨するのに相応しい街になりました。私と共においでになれば、あなたを香港島の女王にして差し上げます」 「なっ.....」  俺は思わず、崔に掴みかかりそうになった。ミーシャが俺の手を強く握ってくれていなかったら、間違いなく俺は奴を殴っていた。 「生憎とウチのパピィは蛇が嫌いでね。蛇の巣窟になど遣るわけにはいかない」  ミハイルの全身からも怒りのオーラが吹き出ているのがよくわかった。俺は割れ鐘のような激しい頭痛に襲われていた。 「それは残念。......だが、蛇はその辺の獣よりも賢く魅力なんですがね」  俺は気力をふりしぼって反駁した。 「体温のない動物は嫌いだ。それに俺はレディなんかじゃない」  崔は最悪な気分に顔をしかめる俺にニタリと笑った。 「私は気にしませんよ。タイの辺りではそういう技術も進んでいる。レディ、あなたなら間違いなくNo 1になれる」 「死んでもゴメンだ!」  俺はもう限界だった。脂汗が額を流れる。 「ミーシャ....」  見上げる俺の肩をしっかりと抱いて、ミハイルは崔に言い放った。 「パピィは気分が悪いようだ。以前にも言ったが、パピィは繊細なんだ。近寄らないでいただきたい」  それは、声音さえ抑えているが、獅子の咆哮そのものだった。崔は肩を竦めて立ち去り、俺はミハイルの腕の中に倒れて気を失った。みんなの顔が頭を過った。周や仲間達やそして.....。 「大丈夫か?」  気が付くと、ミハイルが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。身体を起こして辺りを見回す。 「ここは?」 「ホテルの部屋だ。辛いなら、今日は泊まろう」  俺は首を振った。 「大丈夫.....。うちへ.....帰ろう」  ミハイルがほんの一瞬目を見張り、俺を抱きしめた。俺はミハイルの温もりに埋もれながら、声を潜めて呟いた。 「思い出したんだ.....あいつだ。あいつが、父さんを殺した」    ミハイルの頭がゆっくり頷いた。大きな手が、何度も頭を撫でた。  

ともだちにシェアしよう!