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第64話
「体調はどうだ?」
パーティーの日、ミハイルに担がれるようにして帰ってきた俺は、高い熱を出し二日間ばかり寝込んでしまった。
二日目の夕方近くにようやく熱が下がり、邑妹(ユイメイ)に作ってもらった薬膳の粥を啜っていたところにミハイルが顔を出した。
「大丈夫だ。いい年をして熱なんぞ出すなんて、情けないとこを見せちまったな」
見上げると、ヤツの目の下に幽かにクマが出来ている。
「ミーシャ.....お前、寝てないのか?」
思わず眉をひそめる俺にニコライが溜め息まじりに言った。
「あなたが心配で眠れなかったようですよ。.....私達が付いていると言ったのに、誰も近寄らせなかったんです」
「ミーシャ?....俺はガキじゃねぇ。仕事あんだろ?無理はしないでくれ」
恥ずかしさに少々不貞腐れ気味で窘めると、片方の眉を少しだけ上げて、ミハイルが俺の頬に触れた。
「済まんな。またうなされているんじゃないかと、どうにも気になってな....」
俺はミハイルの微笑に言葉が詰まった。
「ごめん......心配させて済まない」
俯く俺の頬に、ヤツの手がそっと触れた。
「気にするな。......ラウル、お前、父親が崔の奴に殺されたと言っていたが.....」
俺はこっくりと頷いた。そして夢のことを打ち明けた。
「理由はわからないが、父さんと魚釣りに行って帰ってきたら、家の中が荒らされていて.....知らない女が死んでた。父さんはそれを見て、急いで俺をチェストの中に隠して.....決して声を立てるな....って。そしたら崔のやつが、子分を連れて乗り込んできて、父さんを撃ち殺した」
「理由はわからないのか.....?」
ミハイルが怪訝そうな顔をしたが、俺には奴らの言葉は分からなかった。
「俺はずっとオヤジを実の父親だと思っていて.....名字が違うのは、事情があって母親の姓を使わせてる、と言われていた。....俺は自分がドイツ人との混血だって知ったのは、高校に入ってからだった。オヤジを問いただしたら、戸籍を見せられて、『父さんはお前が小さい時、病気で死んだ。お前があまりに可哀想で言えなかった』と言われて、それ以来、父さんのことは訊かなかった」
「母親は?.....家で死んでいたのは、ラウルさん、あなたの母親ではなかったんですか?」
淡々と尋ねるニコライをミーシャが睨み付けた。が、あの死体の女と俺の母親とは別人なような記憶がある。俺は必死で記憶を手繰り寄せた。
「俺は物心がついた時には、父さんと二人で暮らしていたから.....たぶん違うと思う。戸籍では、離婚してて.....俺は母方の祖父の養子になってた。もっとも、俺が戸籍を見た頃には祖父母は故人になってたけどな」
「では、ラウルお前の母親は生きているのか?」
ミハイルは意外そうに、だが極めて慎重に俺に訊いた。
「いや.....」
俺は首を振った。
「父さんと別れて何年もしないうちに亡くなってた。.....病気で日本に返した.....って言ってたから、それ以上はわからない」
「そうか......」
ミハイルとニコライが目配せしていたが、その意味は俺には分からなかった。
「家で死んでいた女性は、ラウルさんの知らない人だったんですか?」
ニコライが不思議そうに訊いた。俺は記憶を探ってみたが、あまりはっきりとした印象はない。
「二、三回くらいは父さんと話ているのを見かけたかもしれないけど.....名前も知らない」
「そうか。.....お前の父親は、何も言い残さなかったのか?」
俺が覚えている父さんの最後の言葉はあの叫び声だった。
「『忌まわしい死神め。いつか必ず、正義の鉄槌が下るぞ』.....ドイツ語だったと思う。そして銃声がして....父さんが胸から血を流して倒れていた。俺はチェストの中にいて、あいつに銃口を突きつけられて......もう駄目だ、殺される....と思った。そしたら、大きな音がして、その後、急に奴らが出ていって.....誰かが、チェストの蓋を開けた」
「それが趙だったわけか....」
「気がついたら、俺は大きな川の上にいて、隣にオヤジがいた。そして言ったんだ。『気がついたか、倅よ』って.....。俺はそれまでのことは全く覚えてなくて、だから俺はオヤジが言うことを信じていた」
「そうか......」
ミハイルが大きな溜め息をひとつ洩らした。
「まぁ、お前が趙を信じてきたのは、間違いではない。お前が記憶を失ったのは、父親が殺されたショックからだ。それを無理に抉じ開けようとせず、お前を大事に育ててきた。いい父親だった」
俺は正直に嬉しかった。父さんのことを思い出したからと言って、オヤジと過ごした時間が消えるわけじゃない。
何より、あの時チェストの中で震えていた俺を抱き上げて抱きしめてくれた、あのオヤジの温もりが俺を救ってくれた。そして俺は思い出した。
「死神.....」
崔に撃ち殺された父さんと、無惨に殺された女の死体を見て、俺は叫んだんだ。
『父さんが死神に殺された!』
そこからの記憶は途絶えて、長い間、父さんのことすら思い出せなかった。けれど......
「俺は父さんの仇を取る。死神を地獄の底に叩き返してやる!」
ー今、俺はひとりじゃない。傍にはミーシャがいる。ー
父さんと同じブルーグレーの瞳をした金色の猛き獅子がいる。
「手を貸してくれるか?」
ミハイルが深く頷いた。そして、俺にゆっくりと口付けた。
「勿論だ、パピィ。私以外の者がその心を悩ませることは許せない」
「お前なぁ.....」
少しだけ溜め息をついて、俺はミハイルを抱きしめた。
「ありがとう....」
ドアの外で涙ぐんでいた邑妹(ユイメイ)が、それからしばらくして、サンクトペテルブルクから姿を消したことに、俺もミハイルも、誰も取り立てて違和感を持たなかった。
『先代の介護に専念するから.....』
行き先を尋ねたニコライに、彼女は笑って言っていた...らしい。ただ、その笑顔がひどく寂しそうだった....とニコライは付け加えた。
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