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第67話
邑妹(ユイメイ)が姿を消して二月近くが経った。俺のトレーニングのパートナーは、軍人あがりのイリーシャという男に変わっていた。イリーシャは元々諜報将校だった男で、いわゆる体術、射撃、ナイフのトレーニングだけでなく、小型の爆発物の使い方まで指導された。が、邑妹(ユイメイ)とトレーニングしていた時のような心地よさは無かった。
ー依存、してたのかもしれないな.....ー
邑妹(ユイメイ)の笑顔が無いのは寂しい。けれど相手は崔だ。ちょっとした気の弛みも命取りになる。それ以上に邑妹(ユイメイ)の行方が気になる。
ーミハイルはああ言ったけど.....ー
崔の手に囚われているのではないか.....とそればかりが気にかかる。
トレーニングを終えて重い足取りで部屋に戻ると、ミハイルがウォッカのグラスを片手に俺を待っていた。表情は変わらないが、かなりミハイルも気がふさいでいるらしい。
部屋の灰皿に長い吸殻が何本も捩消されていた。
「お前も飲むか?」
テーブルの上に、白い封筒が一枚、置かれていた。ミハイルの憂鬱の原因がそれであることは容易に察せられた。
「もらう...」
俺は棚からグラスを出し、氷を入れた。ミハイルがウォッカの栓を開けた。濃密なアルコールの匂いが辺りに拡がる。
俺は黙って濃い酒を一口、二口舐めた。さすがに45度のアルコールはきつい。が、ヤツはぐい....とそれを煽った。
「トレーニングは続いてるか?」
「まぁな......」
沈黙が流れる。
俺は意を決して口を開いた。
「それは........?」
「邑妹(ユイメイ)が残していった......」
ミハイルの手が封筒を開いた。中から取り出したのは、一枚の写真。
「随分、古いな......」
かなり退色してセピア色に霞んだそれをじっと見つめる。
若い男と女.....それと少女。背景には漆喰の壁....屋外なのだろう。日除けの影が長く伸びている。壁には幾つか大小の穴が空いている。傍らには自動小銃が立て掛けられているのが、何か不安な気持ちを掻き立てる。
「誰なんだ?」
俺は無意識に生唾を呑み込んだ。ミハイルは、黙って写真を裏返した。消えかけたペンの跡を辿る。
ーサイゴンにて.....。1972年ー
「1972年?」
「おそらく、この少女が、邑妹(ユイメイ)だ」
ミハイルは、写真を元に戻し、おかっぱ頭の少女の顔には緊張が走っている。が、それでも何とか笑おうとしている。俺は胸が苦しくなった。
「この男女は...邑妹(ユイメイ)の両親なのか?」
ミハイルは首を振った。
「女はおそらくまだ十代だ。裏の文字の跡を解析させた」
ヤツの手が一枚の小さなメモを拡げた。
「中国語の走り書きだ。お前なら読めるだろう?」
俺はメモを手に取った。
「サイゴン...1972年.....邑妹(ユイメイ)と苓芳(レイファ)と.....。愛を込めて.....」
「おそらく苓芳(レイファ)というのは、この男の恋人だ。邑妹(ユイメイ)の姉......だろう」
少女の邑妹(ユイメイ)が若い女性の手をしっかり握りしめていることからも、それが伺い知れる。
「この男の顔に見覚えはないか.....?」
俺は写真を凝視した。そして愕然とした。
「まさか......崔...か?」
ミハイルは黙って頷いた。その男は...おそらくは二十代だろう。邑妹(ユイメイ)の姉らしい若い女性と肩を寄せ、優し気な眼差しで二人を見詰めている。
「.....サインは伯嶺の字を崩したものだろう」
ミハイルがグラスを口に運んだ。ウォッカを呑み下す音がやけに大きく響く。
「邑妹(ユイメイ)の姉と崔は恋仲だったのか.....」
「たぶんな。だが、それだけじゃない」
ミハイルの目が、じっと俺を見つめた。
「女の顔をよく見てみろ.....掠れて判りづらいかもしれんが.....」
「聡明で勝ち気そうな美人だな。.....ショートカットなのは時世か...?」
ミハイルが溜め息をついて鏡を指差した。
「お前に良く似ている.....。目付きや口許の印象まで」
俺は改めて鏡の向こうの、『今』の自分の顔を見た。
「以前の青年の顔を見ても顔立ちが似ている位の印象だったかもしれんが.....今のお前は顔つきまで瓜二つだ」
「何が言いたい?」
俺は空恐ろしい何かがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
「崔は......おそらく.....お前にかつての恋人を見ている」
「止めてくれ!......第一、年齢が違う」
ミハイルは空になったグラスを見詰めて言った。
「邑妹(ユイメイ)の姉は、あの戦争の犠牲になった。十九で亡くなった。......邑妹(ユイメイ)はそう言っていた」
「それじゃ....」
「あの男は、死んだ恋人の面影をお前に見てるんだ......ラウル」
「自分が殺した男の息子にか?!」
皮肉な運命になってしまった。......崔にも俺にも.......あの一瞬が全てを変えてしまった。ミハイルの放った弾丸が、俺の、崔の、そして周りの人間の運命を変えてしまった。いや......。
「邑妹(ユイメイ)は、崔が花嫁衣装を送りつけてきたことで、それに気づいた。だが、私にもお前にもそれは言えなかった.....」
「だから姿を消した、というのか。......何処に?!」
「それは解らない.....」
ミハイルの眼差しが縋るように俺を見た。
「ラウル......済まない」
「何がだ?」
ヤツの言いたいことはわかってる。俺だって言えるなら言いたい。だが.....
「お前が俺を『入れ換えた』ことを悔やむな。歯車は動き出した。俺は父さんの仇を取る。この身体で....」
「ラウル.....」
「お前が俺をこの身体に『入れ換えた』のは、崔に、神が正義の鉄槌を下す為だ。.......お前の罪じゃない」
俺は唇を噛むミハイルを抱きしめた。
「神は、お前に祝福を与えたんだ。.....ミハイル、あの時、図書館で出逢った時に、俺達の運命は決まったんだ」
それは俺自身に言い聞かせる言葉でもあった。もう時は戻せない。俺はヤツとミハイルと共に闘うことを決めたのだ。
「ラウル.....」
ヤツの目が潤んでいた。俺はヤツの瞼に口づけして、愛おしいブルーグレーの瞳を見つめた。
「俺はお前の側にいる」
ヤツの唇が震えて、両腕が俺をきつく抱きしめた。
「愛してる.....」
グラスの氷が小さく鳴った。
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