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第74話
「呑んでるのか、珍しいな.....」
ミハイルがネクタイを緩めながら言った。
俺は窓辺に寄りかかって二本目の缶ビールのタブを開けたところだった。
「イリーシャに買ってきてもらったんだ....。ヴォルカも美味いな。.....あんたも飲むか?」
俺は手元にあった一本をミハイルに投げた。
「どうした.....アルコールなら、ワインでもウォッカでもクーラーにあるだろう」
ミハイルは傍らのワインクーラーを指差した。ワインクーラーとは言え、入っているのは主にウォッカだ。ブランデーやらスコッチやらは、お高そうなやつが飾り棚に並んでる。それでも....
「ビールが飲みたかったんだ」
遠くにイルミネーションが幽かな光を放っている。クリスマスが近い....。
「何があったんだ.....言ってみろ」
後ろからミハイルの腕が俺を包み込み、低音が耳許で囁く。俺はヤツの首に軽く頭を寄せて微笑む。
「何もないさ。ただ.....」
「ただ?」
「何故、父さんは崔に殺されたんだろう.....と思ってさ」
俺の記憶のなかには、その情報は一切残っていない。記憶にある父さんは、優しくておおらかで時々厳しい.....何処にでもいる普通の父親だった。
「それに.....」
俺はぐいっ....とビールを煽った。
「オヤジはなんで俺をスパイの養成所になんか入れたんだ?」
ギャングで強面だったけど、俺にはいいオヤジだった。俺が一人前になって呑めるようになると、夕暮れには二人で屋台に出掛けて、ビールで乾杯して.....顔を真っ赤にしながら俺の自慢をするのが、照れ臭かったけど嬉しかった。
たとえ亡くなった息子の身代わりだったとしても.....。
「オヤジもスパイだったのか...?」
「かもしれないな.....」
ミハイルは俺の渡したビールのタブを開け、溢れた泡を一気に飲み干した。
「だが、別に恥じることでもない。お前のオヤジは......趙は、自分の信じるもののために働いていた。ただそれだけのことだろう」
「ミーシャ......」
ミハイルは俺の手を引き、ソファーに座らせて、言った。
「いいか、ラウル。趙が何を信じ、何のために戦っていたとしても、お前という息子を愛し、大切に思っていたことに変わりはない」
俺は息を呑んで、ミハイルを見た。ヤツは何の躊躇いも迷いもない口調で言った。
「お前の父親も同じだ。崔は疑いなく『悪』だ。麻薬で人を崩壊させ、自分の欲のために子供を拐い、肉体や精神を弄び、果ては臓腑まで奪い取る。.....人にあるまじき悪魔の所業だ。それを罰するのに、どの体制と繋がっていようが、それは些細なことだ。大事な事は、お前の父親も趙も、その『悪』に挑んだ勇気ある『漢』だったということだ」
真っ直ぐに向けられた眼差し、ブルーグレーの瞳......父さんに見詰められているような気がした。
俺はビールを飲み干し、真っ直ぐにミハイルを見返した。目から一筋、滴が頬を伝った。
「ありがとう......ミーシャ...」
ふっ.....とヤツの目尻が下がり、大きな手がくしゃくしゃと俺の頭を撫でた。
「私達が崔を抹殺する。私達の遣り方で.....。お前の父親や趙が成し得なかったことを、息子のお前が果たすんだ」
「うん....」
俺は大きく頷いた。
ミハイルは、ほっとしたように息をつき、にかっと笑った。
「お前の花嫁姿を見せてやれなかったのは残念だがな」
「ミーシャ!」
冗談はよしてくれ!二人とも、ショックで卒倒する。
「さて、奥さん.....もぅ夜も遅い。後はベッドでゆっくり話すとしよう」
「わ!馬鹿、やめろ!」
ヤツは無造作に俺を抱き上げ、ふふんと鼻で笑った。
「お前は私のことだけを考えていろ、ラウル。貞淑な人妻は、他の男の事など考えないもんだ」
「お前なぁ....!」
俺の抗議の叫びはヤツの口づけに封じられ、俺はヤツの腕の中にすっぽりと包み込まれてしまった。
「お前は私だけを信じればいい。ラウル.....私だけを信じろ」
ミハイルの身勝手な囁きに俺は眉をしかめ.....それでも妙に心が安らいだ気がした。ほんの気の迷いだとは思うが.....。
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