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第75話

「ふぅ.....」  俺はヘッドフォンを外し、ブローニングをテーブルに置いた。頬をなでる風が心地よい。崔との闘いを前に、イリーシャが提案した新しいトレーニング。巨大な温室を屋敷の中にぶっ建て、密林を模した草木の陰からふいに現れるターゲットを撃つ。ターゲットのパネルには女も子供もいるが、ポイントはそこではなく、ーこちらに銃口を向けているか否かーだった。最初はためらってターゲットから発射されるペイント彈を食らうこともあったが、すぐに慣れた。 「上達が早いな」  イリーシャが皮肉混じりに言う。 「大概は女子供の姿のパネルに慣れるにはだいぶ時間がかかるもんだが.....」  俺は差し出されたタオルを頭から被り、口を歪める。 ー俺はイラクにいたんだぜ.....ー  I S には女も子供もいた。年端もいかない子供がマシンガンを抱えてこっちを狙う。生き延びるために、人間としてギリギリの選択をしなきゃならなかった。 「随分と場馴れしてるな。二十歳そこそこのガキの出来る芸当じゃない」 「え?」  イリーシャは怪訝そうに眉を寄せた。 「子供や女のパネルは銃口の設置されている腕の部分だけを狙ってる。大した判断力だ」  俺は死にたくなかったが、殺したくもなかった。命の瀬戸際で磨いたテクニックだ。 「ははは...俺はいいエージェントになれるかい?」    俺は皮肉めかして言った。オヤジはスパイだったかもしれない。そして目の前にいるこいつも、諜報将校......元スパイだ。俺はスパイの訓練生としては、優秀だったんだろうか......少し気になった。  ところがイリーシャは、ふっ....と小さく笑ってあっさりと言った。 「無理だな」 「はぁ?なんで?」 「お前には祖国がない」 「あるさ...俺は香港を愛してる。日本も...」  一応、十八まで数年、日本にいる身内に身を寄せていたことになっている。日本語が流暢に話せる....というのは珍しいからだ。 「香港は国じゃない。中国本土との対立関係は解消されていない。日本育ちでは、ますます無理だな」  イリーシャはブローニングをホルスターに収めながら言った 「なぜ?」 「お前は素直でストレート過ぎる。....それに日本人は殺しや謀略には向かない」  イリーシャは目を細めて俺をましまじと見て言った。俺はイリーシャに食ってかかった。 「日本人が謀略に向かないって何でだ?」 「歴史的な...民族的な経験が希薄だ。本能的に判断が甘い」  俺には返す言葉が無かった。 「国のため、民族のために血を流し続けた人間には執念がある。DNA に刻まれた怨念がな。日本人には、お前にはそれが無い」  イリーシャは、ぽん....と俺の肩を叩いた。 「あんたは魅力的だし、誰よりもミハイルを愛してるらしい....。だから、いい暗殺者(アサシン)にはなれる。ミハイルの守護者、ミハイルの相棒として...な」 「俺が?.....愛してる?!....あいつをか??」  俺は顔が熱くなってくるのを感じて、イリーシャに背を向けた。 「愛して...なんか...」  蚊の鳴くような声で抗議する俺にイリーシャは珍しく高く笑った。 「隠さなくてもいいさ。バイでもゲイでも愛し合えるってのはいいことだ。俺も昔は頑張った」 「昔?」  じゃあ今は.....。 「長く碌でもない稼業をしていると、勃たなくなるのさ。まぁ別に今さらだがな」 ースパイになんぞ、なりたいと思うなー  イリーシャの柔いた灰色の瞳がそう言っていた。俺はひとつだけ確かめたかったことを勇気を奮って口にした。 「ミハイルはエージェントなのか?」 「違う」  イリーシャはあっさりと言った。 「彼は協力者だ。...だから私がいる」 ー国から派遣された見張り...てわけか、ミーシャと俺と.....レヴァントの連中のー  だが、それでも俺は、とても安心した。ミハイルは俺を騙してはいない。ただ、それが嬉しかった。

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