83 / 106

第78話

「なぁ、イリーシャ。崔の情報をもう少し教えてくれないか?」  俺はトレーニングルームの片隅でミーシャの無事を確認してから、ペットボトルの水を一口飲み、イリーシャに向き直った。イリーシャは本物のプロなのだろう、温室まがいの環境の中でも汗をかいている様子も無い。 「聞こえるぞ?」  俺の盗聴器つきピアスを指す指は節だって、硬くなった皮膚が銃を握ってきた経歴を物語っている。  俺はそっとピアスを外し、ヘッドフォンの下に置いた。イリーシャはそれを確かめるとおもむろに口を開いた。 「奴の何を知りたいんだ?」 「全部だ」  俺は口許から溢れる水を手で拭いながら言った。 「ミーシャは、あいつ.....崔は麻薬取引だけじゃなく、人身売買や臓器売買もやってるって言ってた。なんでICPO (国際警察)が取締れないんだ?....あんたらエージェントが介入するのは何故だ?」  イリーシャは少し黙り込んで、低い声で言った。 「色々な国の中枢や財界のトップに奴の顧客がいる.....人間、金や暇があると歪んだ性癖に走り、当たり前のモラルを失うことはよくある話だ。生命根性も汚いしな.....政権の座を守り続けるために、臓器移植を繰り返したり、裏の組織を利用して政敵を抹殺したりもする」  イリーシャは、苦々しそうに唇を歪めた。 「冷戦の時代は特に酷かった。様々な国で何人もの要人が色々な手段で闇に葬られた。時代が変わると、奴らはテロリストに武器を売り付け、テロや内戦を煽った......手を染めていない悪事は無いと言っていい」 「そうか、あんたらエージェントは、奴らをテロリストとして位置づけてるわけか。だったらなんで潰せないんだ?」 「言ったろう?.....奴らの顧客には世界を動かす大物が数多いる。....いや、いたんだ。わが国にも分裂する前には」 「今はいないってか?」 「わからんが減ってはいるだろう。我が祖国はペレストロイカ以降は民主化に努めているからな。奴らのもっぱらの相方は今は人民政府だ」  俺は崔のあの台詞を思い出した。 『香港はキレイになった...』  寒気がして、憎悪がこみ上げてきた。  俺は頭を振り、今一つどうしても知りたかったことを訊いた。 「あいつが.....崔がミーシャに仕掛けてくるのは俺のせいか?」 「違う」  イリーシャは苦笑いしてあっさりと言った。 「崔とレヴァントは犬猿の仲だ。崔は元は医者で華橋のプチ-ブルのリーダー的存在だった。ベトナムが南北統一を果たした後、政権から追われ、粛清を逃れて逃亡した。地下に潜ってシンジケートを作ったのはその後だ。奴らの目的は裏で世界を牛耳ることだし、表の社会を破壊することだ」 「つまり、レヴァント-ファミリーは邪魔なわけか」 「そうだ。先代のゲオルグ-レヴァントは麻薬のルートの奪い合いをしていたし、人間の臓器の売買なんぞ、我々キリスト教徒にとっては悪魔の所業だ。我がロシアを奴らの市場にはさせられない。その点では国家もマフィアも同じだ」 「だから協力者なのか.....」  俺はやっと腑に落ちた。 「ミハイル-レヴァントは麻薬の扱いを止め、崔のロシア国内のルートも潰した。わが国はその貢献には報いなければならない」  イリーシャは深く頷いた。俺はそれでもまだ不安を拭えなかった。 「なぁイリーシャ......俺はミーシャの妨げになってないか?.....その.......崔の攻撃を強めるような」 「大丈夫だ」     イリーシャは笑って言った。 「むしろ、崔の手を鈍らせている。あんたが東洋人じゃなかったら、崔の昔の恋人とやらに似ていなかったら、とっくに蜂の巣にされてる。 或いは誘拐されてレイプされた上に解体されているかもしれない」 「解体って.....」 「奴らに逆らったアジアのファミリーの家族がそういう目に合ってる。.....一人だけじゃない。特に欧米系のファミリーには残酷だ」 「戦争の恨みか.....」 「多分な。幸か不幸か崔はあんたに気があるらしい。だからあんたを殺さずに手に入れようとするだろう。その分、崔は思いきった手が打てない」 「ならば、いいけど.....」  俺はほっ.....と息をついた。そして、辺りを見計らい、イリーシャに頼み込んだ。 「邑妹(ユイメイ)を探して欲しい。......ミハイルやニコライには内緒で。....KGB 時代のつてがあるだろう?」  イリーシャは頷き、小さく呟いた。 「あいつなら....趙夬が生きていれば、手早かったんだが.....」  俺は思わず息を飲み、だが素知らぬふりで訊いた。 「そんなに有能だったのか、その人....」 「凄腕だった。......ある時まではな」 「ある時?」 「.......いや、何でもない」  イリーシャはそれ以上何も言わなかった。俺も何も訊かなかった。 ーオヤジ...ー  俺はピアスを着け直し、ミハイルの迎えに踵を返した。空が朱く染まり始めていた。

ともだちにシェアしよう!