84 / 106

第79話

「なぁ、その...趙夬てのは、どんな人だったんだ?」  数日後のトレーニングの終わりに、俺はイリーシャに水を向けた。知りたかった。オヤジの本当の姿が.....。  イリーシャはまじまじと俺の顔を見て、怪訝そうに言った。 「なんでそんなことを訊く?」 「その.....凄腕のあんたが、一目置いてる奴って......どんな男なのか知りたくて、さ。もう亡くなってるんなら、話したって大丈夫だろ?俺は外とは自由にアクセスできないんだし....」  イリーシャはふっ....と溜め息をつくと、ピアスを外せ、と身振りで合図した。俺はピアスを外してタオルでくるみ、イリーシャの言葉を待った。  「趙は...実際に顔を合わせたことは無いが伝説のエージェントだった。......崔の『エージェント狩り』を生き延びた唯一のエージェント。不死身の狼と言われた男だった」 「エージェント狩り?」 「あぁ、崔のシンジケートは要人やその家族の誘拐に深く関わっていたからな。各国やNATO からかなりの数のエージェントが潜入していた。それに気づいた崔は罠を仕掛け、エージェントを片っ端から殺して口を封じていった。KGBでもかなりの犠牲が出た。...その粛清を生き延びたのは趙ひとりだ。.....いや、趙の『親友』だったNATO のエージェントの小倅とふたり.....か」 「NATO のエージェントの小倅?」  俺はドキリとした。あの濁った大河の上、オヤジが操る小舟の縁に必死でしがみつき、遠ざかる密林を呆然と見つめていたのは....俺だ。   「あぁ、彼はその子どもを育てるためだと言って一線から退き、行方をくらました。15年も」 「15年...」  それは間違いなく、俺とオヤジが暮らした時間だ。 ーオヤジは、俺のために組織を抜けた?ー 「まぁ、崔のアジトの調査は過酷な任務だった。組織は趙の行方を追うことは敢えてしなかった。......彼は崔の追っ手を警戒して、旧知の楊に助けを求め楊のファミリーの一員となった。日本での安全を確保するために」  「KGBはよく見逃したな」 「ソ連邦が解体して、混乱状態にあったからな。結局、ロシア諜報局として再出発するまでにかなりの時間を要した」 「へぇ.....」 「その彼が15年後、再びモスクワに姿を現した。.....彼の腕を惜しんだ上層部が招集をかけたんだ。断れば消される。上層部は彼に香港の独立運動のリーダーを排除するよう命じた。だが、彼はそれを果たさないまま、死んだ。.....情報だけを持って」 「どうして?」 「彼はNATOの二重スパイになっていた。......それが発覚したのは、彼がNATO の訓練所に密かに小倅を入れた後だ。彼は小倅を組織の誰とも接触させず、楊ファミリーの若頭にして、組織との関係を断絶させた。だが情報は回収せねばならない。彼が、育てた小倅に情報を託したのはわかっていた。.....組織は回収を急いだ。だが、横槍が入った」  俺は脈拍が上がるのを抑えて訊いた。 「横槍....?」 「レヴァント.....ミハイルだ。ミハイルは、どこから聞き付けたのか、自分の獲物を横取りするなと言ってきた。趙の小倅は香港マフィアだ、若頭の小倅は自分が始末するから手出しするな、と上層部に捩じ込んだんだ」 「ふぅん.....」 「結局、組織は『協力』と『支援』を条件に手を引いた。趙は既に死んでいたから。ミハイルは約束どおり小倅を始末して、情報を取り戻した。...まぁ既に役にはたたなかったがな」  俺はやっと全てを理解した。 ーヤツは......俺なんかのために、国家の犬になったのか......ー  俺は思わず目頭が熱くなり、イリーシャに背を向けた。 「どうしたんだ?」 「いや、何でもない...」  俺は訝しげに尋ねるイリーシャに首を振り、ピアスを着け直して、歩き出した。 「戻ろう」      ミーシャに訊きたいことが沢山あった。言いたいことも沢山あった。  けれど、帰ってきたミーシャに対して俺が出来たのは、その首を抱きしめることだけだった。 「どうした?」  ミハイルは驚いたような顔をして、だが少しだけ口許を緩めて俺を見た。俺は小さな声で、ヤツの耳許に囁いた。 「お帰り.....」

ともだちにシェアしよう!