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第80話

 夕食を終えた後、俺は部屋に戻り、隣接したシャワールームで昼間の汗を流した。ボディソープの香りが辺りを包む。 ーなんでローズなんだ....ー  しかもブルガリアンローズ100%の超高級品だ。 ー間違ってるぞ、ミーシャ。絶対間違ってる...ー  俺は優雅な甘い香りに包まれる度につくづくと思う。だが一番間違ってるのは....。 ー俺なんかのために、なんで.....ー  オヤジはKGBを裏切り、ミハイルは国にデカい借りを作った。 ーわかんねぇ.....ー  俺のささやかな知識の中ではKGBとNATO は敵同士だ。その敵の子どもを、俺をオヤジは連れて逃げた。 しかも組織を裏切ってまで育ててくれた。  シャワーの水流に叩かれながら、俺はオヤジの笑顔を思い出していた。深い皺の刻まれた目尻と厚みのある唇、少し後退した額を撫でながら、顔をくしゃくしゃにして笑うオヤジのあっけらかんとした表情からは、スパイなどという暗い影は微塵も感じられなかった。 「滝に打たれてるつもりか......?悟りでも開くのか?」  きゅ、と小さな金属音がして、水が止まった。首を巡らせると、ミハイルが眉をひそめて立っていた。 「ミーシャ?」 「どこにいるのかと思えば.....探したぞ」  軽く頬にキスされて、逞しい胸に抱え込まれる。その左腕には、生々しい赤い傷が残る。崔の手下に撃たれた跡だ。 「.....ちょっと汗を流してただけだ」  俺は頬にキスを返し、俯いた。 「一時間もか?.....東洋人の風呂好きは理解し難いな」 「日本人だからな、俺は」  オヤジとよく銭湯に行った。あちらこちら深い傷があった。 『若い頃、散々無茶したからな.....』  オヤジは俺の頭を撫でながら、よく言っていたものだった。 ーあれはヤクザの喧嘩の傷じゃなかったんだ...。もっと違う.....ー 「どうしたんだ?」  ふっと我れに還ると、ミハイルが不機嫌そうな顔て、見下ろしていた。 「なんでもない.....」  黙りこむ俺の膝の裏をミハイルの手が掬い上げた。 「わ....何すんだ!」 「風邪をひく」  膝に抱かえられたままバスタブに浸けられ、湯が注ぎ足されるのをじっと見ていた。背中に触れるミハイルの肌は暖かい.....。 「なぁミーシャ.....」  俺はおずおずと口を開いた。 「なんでオヤジは俺を助けたんだろう....」 「ん?」  ミハイルの瞳が俺を見つめる。 「.....イリーシャから聞いた。父さんはNATOのエージェントだったんだろう?敵なのに、何故オヤジは俺を助けて....」 「過酷な『敵』と向き合えば共闘もするし、友情も生まれるさ」  俺の胸元をまさぐりながら、ヤツは事も無げに言った。 「でも俺なんかを育てるために、組織を裏切るなんて...そんなこと.....あっ...」  胸の突起を摘ままれ、反らせた顎をヤツの手が捉える。 「それも.....二重スパイなんて....」 「それは違うだろう」  ミハイルは振り払おうとする俺の手を押し退けて、胸の突起を弄びながら言った。 「趙はお前を立派に育てることに生き甲斐を見出だした。だから、組織を利用した。KGBもNATO も利用しただけだ。彼にとっては組織は生き延びるためのツールに過ぎなかった。お前という息子と幸せに生きるために.....」 「そんな......ああぁっ!」  ヤツに突起を強く抓り上げられ、俺は体を仰け反らせた。 「お前だって.....ミーシャ.....俺なんかのために国に大きな借りを作って......そんなこと....」  言葉を口にすると同時に涙が涌いてきた。 ーイリーシャはああ言ったけど、俺がいなければ、もっと自由で、もっと楽に崔とも戦えるのに....ー  そう思うと、正直に俺は悔しかったし、情けなかった。だが、ミハイルは俺の目許に唇を押し充て、俺の顔をじっと見つめると叱るように、諌めるように、言った。 「ラウル.....『俺なんか』などと言うな。趙の人生を否定するような事を言ってはいけない。.....それに私は、お前がいたからこそ、ここまで這い上がったんだ。私だって、自分の希むもののためには何だって利用する。国だろうが、組織だろうが.....お前を手に入れるためなら、利用できるものは何だって利用する。ただそれだけのことだ」 「ミーシャ....お前...」  口ごもる俺をブルーグレーの獅子の眼が睨みつけた。 「ラウル.....お前、まだわからないのか?.....躾が足りていないようだな」  ドキリ.....と心臓が大きく跳ねた。 ーあ、ヤバい......ー  と思った時には遅かった。ミハイルの指が俺の後孔に潜り込み、敏感な部分を押し潰した。 「あっ.....ミーシャ.....だめ......ひぁ...ああっ」  身体をがっしりと押さえ付けられ、激しく肉襞を擦りたてられ、俺は身を捩り、啜り泣いた。ひんやりとした声音が、恐ろしい程の熱を孕んで囁いた。 「聞き分けの無い子には、お仕置きをしないとな.....。ここでするか?それとも....?」 「ベッドにしてくれ....」  俺は項垂れて、叱られた仔犬そのままの気分でミハイルの腕に抱え上げられ、身体を拭われ、ベッドに運ばれた。俺は怒りの焔を燃やす獅子の目を恐る恐る見上げ、そして呟いた。 「本当に....お前は......」  重すぎる。けれど重すぎるその『愛』に生かされているその事は、俺にとってたぶん不幸ではない。だが.... 「愛してる.....」  その一言が全てを変えてしまうなんて、知らなかった。

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