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第84話

 崔の鉛のような目がじっと俺を見下ろす。深い闇のような底冷えのする視線はやはりゾッとする。異様に紅い薄い唇が喋る。 「この城にあなたをお迎えできて光栄ですよ。レディ....やはり、あなたの黒曜石の瞳には南国の陽射しがよく似合う」 「俺は嬉しくない」  懐かしい.....が辛い思い出が蘇る。こいつに父さんを殺された、家族を失ったあの夜が....。 崔は唇を小さく歪めて......たぶん笑ったのだろう。 「いずれここの素晴らしさがお分かりになりますよ。あんな雪と氷に閉ざされた場所では心まで凍えてしまう....」  冷たく僅かに湿り気を帯びた死人のような手が俺の頬を撫で上げた。気持ち悪さに総毛立つ。俺は渾身の力を込めて奴を睨み付けた。 ー寒い場所だから、人の温もりの大切さがわかるんだ...ー  俺はミーシャの泣きそうな顔を思い浮かべた。涙が出そうになった。 「そんな顔をなさらないで.....レディ。あなたのお気持ちは分かります。でも、それはまやかしに過ぎません。そんなにあの野蛮な獣がお気に入りなら、私が仕留めて剥製にでもしてさしあげますよ。私達の臥床の壁飾りにね.....」  崔の言葉に、腹の底から怒りと驚きと悪寒を感じずにはおれなかった。 ーこいつは一体、.....人間なのか、本当に?ー  俺は怒りを込めて睨み付け、叫んだ。 「ミハイルに、ミーシャに手を出すな!!」  崔は少しばかり驚いたふうで、だが不気味な背筋が凍るような笑みを湛えて言った。 「あなた次第ですよ、レディ」 「何が希みだ?」  俺は...ミハイルの無事が確保されるなら、内臓を抉られようが、手足を切り落とされようが、殺されてもかまわない.....と思った。いや、ナニを切られて女にされるのはまっぴら御免だが......そんなことをされるくらいなら、舌を噛んで死んでやる。だが、その時には、こいつも......崔も道連れだ。  ギリギリと歯噛みする俺に、崔は表情も変えずに、言った。 「私との約束を果たしてくれれば良いのです」 「約束?」 「あなたは、ずっと私の側にいてくれると約束した。生まれ変わっても...来世も共にと誓ったはずです、苓芳(レイファ)。.....いや、必ず生まれ変わって、私の妻になる....と」  あの写真の女性のことか.....と俺はチラッと思った。が、俺は彼女ではない。 「何の事だか、さっぱり分からないな。苓芳(レイファ)なんて名前は聞いた事も無いし、それに俺は男だ」 「存じてますよ....」   崔はふっ...と鼻で嗤った。そして俺の身体を俯せにひっくり返した。痩せて幽鬼のように見えるその風体からは考えられない力だった。 「過去世を思い出すには、それなりに時間も手間も掛かりますが、私は気にはしません。...しかし、あなたがもはや生きた菩薩に生まれ変わられるとは...」  奴の.....崔の指が背中に触れ、俺はその冷たさに身震いをした。崔はそんな俺の反応に何の関心も示さずに、背中の...腰の辺りを撫で回した。おそらくは、ミハイルが施した刺青を、蓮の花を擦っているであろうことは、指の動きから察せられた。 「触るな!」  俺は力いっぱい怒鳴っていた。その花に触れていいのは、ただ一人だけだ。  「いけませんねぇ.....」  崔の手が伸び、負傷した俺の右腕を締め上げた。俺は思わず顔をしかめ、身を仰け反らせた。 「救済すべき人間が誰かきちんと思い出していただかないと....」  崔は俺の左手の指輪に気づくと大袈裟なくらいに眉をしかめ、指から抜き取った。   「あなたは私の妻なのですよ.....こんな忌まわしいものは今すぐに捨ててしまわないと...」  そう言うと、崔はミハイルのくれた指輪....プラチナのそれを二本の指で摘まんで潰した.....まるで飴を捻るように捻られたそれは粉々に砕けて、床の上に散乱した。 ーこいつは....ー  青ざめる俺に、崔は宥めるように口調を変えて囁いた。 「結婚式は次の満月にしましょう....仏陀が恩寵を降ろす夜に......それまでに思い出せるよう、入念にお世話をさせます....彼女に」  崔の首がつい....と入り口を向いた。そこに躊躇いながら姿を現したのは....彼女だった。 ー邑妹(ユイメイ)....!?ー  俺は驚きと安堵と.....困惑の入り交じった眼で彼女を見つめていた。

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