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第85話
ー邑妹(ユイメイ).....無事で良かったー
邑妹(ユイメイ)は、少し痩せてやつれているようだったが、他に目立った外傷は見当たらなかった。彼女はそっと俺に近づくと頬を撫でた。
「小狼(シャオラア).....なぜ....」
色褪せた唇が哀しげに呟く。
「だって....ミーシャが.....」
言いかけた俺の言葉を遮って、崔が感情の無い声音で言う。
「レディは私の狩りを妨げた。身を挺してあの野獣を.....ミハイルを逃がした。せっかくの獅子狩りを台無しにしてくれた」
邑妹(ユイメイ)の目が、俺を見詰めた。俺は僅かに頷いて、彼女に伝えた。
ーミーシャは無事だ.....ー
怪我はしたが、俺が応急手当した限りでは生命に別状は無い。
「まぁ.....私にとってはあのような愚かな獣はいつでも狩れる。レディが私の手の中に堕ちた今、あの男は牙を無くした哀れなハグレに過ぎない。.....牙の無い獅子など見かけ倒しの猫に過ぎない」
俺は背中越しに崔を睨み付け、邑妹(ユイメイ)が宥めるように、俺の肩を擦った。崔は、俺と邑妹(ユイメイ)を見下ろし、冥王の如く冷えた声を響かせる。
「邑妹(ユイメイ)、姐姐(姉さん)はまだ悪い夢の中にいる。一日も早く昔の記憶を取り戻させねばいけない。......わかるね?」
邑妹(ユイメイ)の顔色がさっ.......と青ざめた。
「止めて!」
彼女は半ば泣きそうな声で言った。
「伯嶺.....小狼(シャオラァ)に酷いことしないで!」
崔は平然と彼女を見据えたまま、口許を小さく歪めた。
「邑妹(ユイメイ)、姐夫(義兄さん)と呼びなさい。苓芳(レイファ)は私の妻になるのだから....小狼(シャオラア)などと、二度と呼んではいけない」
「でも.....」
「心配はいらない。....すぐに前世の記憶は戻る。....私は名医なのだからね」
「伯嶺.....」
「姐夫(義兄さん)だ」
崔は、邑妹(ユイメイ)に刃を突き刺すように言うと、ベッドの端に軽く腰をかけ、力の入らない俺の身体を抱き起こした。死神の顔を間近に近づけ、そして......。
「......ん、んむぅ....」
俺の唇に僅かに湿り気を帯びた冷たいそれが触れた。顎を掴まれ、押し開かれた口の中に蛇のそれのように長く細い舌が捩じ込まれ、口中をまさぐり俺の舌をからめとり、絡みつく。身動きもままならぬままに、好き放題に蹂躙され、気持ち悪さと怒りに俺は涙を溢していた。
「あぁ....少し遣り過ぎてしまったかな。レディがこんなに純情とは....」
崔は、俺の頬を指で拭い、再びベッドに横たえた。崔の好意的な誤解で口づけの拷問から解放され、俺はほっと息をついた。そしてその時になって初めて全裸であることに気づいた。恥ずかしさと惨めさで顔に血が集まるのがわかった。
「あの.....何か着るものは無いのか?寒いんだが....」
あぁ....と奴は思い出したように邑妹(ユイメイ)の方を見た。
「薬が切れたらレディに繻衣を....。私の妻に相応しい姿容をさせねば....。但しまだ邪気が体内から抜けていないようだから、枷はさせておかねばな.....」
そう言うと崔は、誰かを呼ぶために部屋から出ていった。俺は大きな息をひとつ吐き、邑妹に囁いた。
「あいつ、完全に脳ミソが沸騰してるぞ。直射日光に当たり過ぎなんじゃないのか?』
邑妹(ユイメイ)は、しっ....と唇に指をあて、声を潜めて言った。
「少しだけ辛抱して小狼(シャオラァ)、必ず....」
俺は瞬きをして応えた。そして今一度、大きな溜め息をついた。
ーミーシャ.......ー
無性にミハイルに、ミーシャに会いたかった。
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