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第87話

 激しく虫が鳴いていた。短い命の終わりを惜しむような美しくも儚い音色が辺りを取り巻いていた。俺はベッドに座って天上にかかる大きな月を見ていた。ここでは月すらも蜜色で、人間の情念のねっとりと濃い様を映しているようにすら見える。 ー弓張り月....かー  日本ではそのように言うのだと、誰かに教わった。あれは誰だったろうか......もぅ思い出すことの出来ない遠い昔のような気がする。   ーここは何処なんだろうか.....ー  連れ去られた時には月は下弦に欠け始めた頃だったような気がする。とすれば、もう二週間近くが経つ。 ーミーシャは.....心配しているだろうなー  俺は大きく溜め息をついた。指輪のGPS は粉々に砕けた。......が、ミーシャが俺の心臓の裏側に埋め込んだGPS が機能しているなら、俺とミーシャを繋ぐ糸はまだ切れてはいない。  ふ.....と背後に人の気配がした。俺は僅かに首を巡らせてそちらを窺った。 「眠れないのかね.....」  黄泉路に迷い込んだのではないかと思わせる響きが耳に触れる。 「崔....」  身構える俺の傍らに音もなく歩みより、崔は幾分、眼をつり上げて言った。 「その言い方は止めなさい。私は君の夫になる。ちゃんと亲爱的(あなた)と呼びなさい」 「無理だ」  俺ははっきりと顔を背け、拒否した。俺にとって亲爱的(あなた)と呼ぶ相手は崔ではない。 俺にとって最愛の存在は、最も近しい人間は血の通わぬサイボーグなどではない。 「レディ、あなたはもう悪夢から覚めねばいけない。あのような野獣のことなど忘れなさい」  キリキリと苛立ちを顕にする崔を改めて睨み付け、俺は言った。 「そういう問題じゃない。あんたはいったい何人殺した? 何人の人生を踏みにじった?!」  俺の父さんを殺し、何人もの内臓を抉り出し、何の罪も無い人々を苦しめてきた。その血にまみれた手で触れられたくは無い。 ーまぁ俺だって....ー  元はマフィアだ。この手は血に汚れている。ミハイルだって......だから俺達は天国には行けない。行くつもりもない。けれど、少なくとも何の罪も無い子どもや女性を手に掛けたことは無い。と、崔がより一層冷ややかに地獄の底から響くような声音で言った。 「苓芳(レイファ)忘れたのか?!私達の同胞は、家族は何の罪もなく殺された。ナパームで焼かれ、銃弾で蜂の巣にされ.....君をあの野蛮人どもに傷つけられ喪った時、私がどれ程苦しんだか......」  俺は息を呑んだ。 ー崔の恋人は.....邑妹の姉は米兵達に暴行されて亡くなったのかー  崔は続けた。 「私は息絶えた君を、傷だらけの君の遺体を見た時、あいつらを地獄の底に叩き落とすと決めたんだ。あの西洋の野蛮人どもを、君を救おうともしなかった奴らを.....」 「崔....。だからといって......」  言いかけた俺を狂気に満ちた眼差しが見据えた。 「苓芳(レイファ)は苦しみの中で死んだ。残された私は同胞に裏切られ、国を追われ犯罪者とされた。政府に......。なのに同胞を私達を苦しめたあの男はポル-ポトは隣国で自分の同胞を国民を好き放題に殺しながら、『英雄』と祀り上げられていた......だから、私も『英雄』になり、私の王国を築いたのだ......この世を地獄と化して全ての人間が私達の同胞と同じ苦しみの中でのたうち回らせるために....」 ーなんてことだ.....ー  それは疑いなく狂った化け物だった。『戦争』という狂気が産んだ化け物....。俺はイラクのあの風景を思い出した。恐怖に駆られて銃を構える少年達の絶望に満ちた眼差し....生きることが苦しみでしかない命の無言の悲鳴が、崔の中で渦巻いているのが、見えた。 「苓芳(レイファ)....」  崔の血の通わぬ手が俺の頬を挟み込んだ。 「もう私を一人にしないでくれ.....」  既に虫の声は絶えていた。椰子の葉を揺する風だけが遠く聞こえる。 「俺は苓芳(レイファ)じゃない.....」  俺のその言葉が崔に届いたかどうかは分からない。ふと、崔は何物かに呼ばれたかのように立ち上がり、部屋を出ていった。    翌朝、二人の少年の遺体が塀の向こうにうち捨てられていた....と邑妹(ユイメイ)がぽつりと言った。彼らの名も顔も知らない。肌の色も分からない。けれど、崔の狂気の贄になった....それだけは確かなことだった。  

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