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第88話
弓張の月がかなり丸みを帯びてきた頃、俺はあることに気づいた。崔はほぼ毎夜のごとく俺の閉じ込められている部屋に来て、俺に触れていく。だが....
「ん....んふっ...やめ...」
崔に無理矢理に押し付けられた唇が俺の唇から離れ、冷たい指が俺の肌をまさぐる。邑妹(ユイメイ)は左腕は機械だと言ったが、右手だって血の通っているものとは思えない。崔の指が胸に触れ、稜線を辿り...そして俺を俯せてひとしきり腰の刺青を撫で回し、口づける。
「美しい...。淡い月の光に晒されて、本当に浄土の蓮の花が揺れているようだ...素晴らしい」
感嘆の息を漏らしながら、俺の刺青を撫で擦る崔....盗み見たその眼に哀しみが漂っていたように見えたのは、きっと気のせいだ。
そして...俺の気のせいでなければ、崔は不能だ。PTSDなのかEDなのかは知らないが、中途半端に熱を煽られることに俺は少し苛立っていた。
「あんた、勃たないのか?」
俺はほんの少し躊躇いつつ、だがうっかり口にしてしまった。殺られる...もしくは犯られる...と身を固くした俺に返ってきたのは意外な言葉だった。
「済まないが...拷問で潰されてね。大丈夫だ。式を挙げたら君にも処置するから....そうすれば『性』などという不潔なものに煩わされなくて済む」
如何にも穏やかな口振りだが、俺は、『宮刑』というぞっとしない言葉を思い出した。けれんも気負いもない淡々としたその言葉つきが一層恐怖を煽りたてる。
「あんたは、俺を女にしたかったんじゃないのか?」
俺が不気味さに抗しきれずに聞き返すと、崔はくくっ...と小さく喉で笑った。
「観音菩薩は男だ。性という禍々しさから解放された男だ。苓芳(レイファ)はずっと憧れていた。あんなに美しい存在はない....と」
俺は言葉に窮した。そして何とか崔の『まとも』な部分と話をするべく頭を巡らせた。握られた手のひらがじっとりと汗ばんだ。が、崔の金属の掌に、その熱も焦りも伝わらない。
「あんた、子どもはいなかったのか?」
これも迂闊だった。奴は不快そうに顔を歪めて言った。
「結婚してから...と約束していた。だが苓芳(レイファ)と私の子はこの世に生を受けることはできなかった。....苓芳(レイファ)の子のいないこの世に子どもなど存在していて良い筈がない。なのにあの男は....」
「え?」
「あのドイツ人は、私の周囲を探っていただけでなく、息子をいたく愛していた。私達の持ち得なかった子どもを....」
ー父さんのことか....?!ー
「だから私は子どもを寄越せと言ったのに....そうすれば見逃してやったのに...私の申し出を拒否したばかりでなく、私の城を破壊させた」
俺はふっとあの時の光景を思い出した。銃口を向けた崔の氷の眼差しを....。
ー父さん....ー
俺は不安と疑惑に怖れ戦き、予期せぬ言葉を口にしていた。
「....もし、その男があんたに子どもを渡したら...その男から子どもを取り上げたら、あんたはどうするつもりだったんだ?...殺したのか?」
意外なことに、一瞬、崔の目に困惑の色が走った。が、相変わらず冷ややかに言葉を継いだ。
「たぶん......。だが、あの子どもは珍しい子だった」
「珍しい?」
「私に....この私によく笑いかけてきた」
それきり崔は口をつぐみ、俺も沈黙した。しばらくの後、黙って部屋を立ち去った崔の背中は深い影に沈んでいた。
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