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第89話
月は日増しにふっくらとしてゆき、俺は逆にげんなりと痩せてきた。昼間は照りつける太陽に体力を奪われ、夜はふらりと姿を現す死神のような男に生気を奪われ、黄泉路に....あの世に片足を突っ込みかけているような気さえしてきた。
「小狼(シャオラァ)、気を確かにもって....」
邑妹(ユイメイ)が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。......こいつが邪魔なだけだ」
俺は両手に嵌められた枷を日にかざして見せた。間には鎖....何日かごとに長いものに取り替えられているが、動作を制限されていることに変わりは無い。扉の外には銃を携えた見張りの男が二人。崔が来る夜更けには別に二人、護衛がついてくる。
実を言えば、見張りの一人は何日か前に代わったばかりだ。最初にいた見張りのひとりは、崔の側近の一人だったはずだが.....奴の隙をみて俺を犯ろうとして、崔に殺された。俺にのし掛かろうとしているところを崔に見つかり.....弁明の一言を言う余裕も無く、崔に頭を撃ち抜かれた。
その男は、至って崔に忠実な男だった。二十代後半くらいに見えた。男は夕刻、崔が部屋を立ち去ったのを確かめて、部屋に入り込んできた。
『俺は小さい頃から、ずっと頭主さまの傍に仕えてきた。だから俺は頭主さまのことなら何でも知ってる』
男は真面目くさった顔で俺の傍にすり寄るようにして言った。
『頭主さまは神龍の化身だ。暗い闇の奥深くから傲慢な人間どもを罰するためにこの世に姿を現された』
俺は、あまりの突拍子もないイカれた発言に思わず激しく反駁した。あいつが神だったら、この世は血と狂気にまみれた地獄か魔界かにされちまう。......そんなことは、俺が許さない。
『何を馬鹿なことを言ってるんだ、お前。ヤツは単なる人間だ。欲深な狂気に囚われた犯罪者だ』
『黙れ!』
男の手が激しく、俺の頬を張った
月明かりに照らされたその顔には既に崔と同じような狂気が宿っていた。
『お前は男娼だろう?!頭主さまの大切な人の姿を盗んで頭主さまを惑わせ誑かそうとする悪魔め!』
『ふざけるな!俺はそんな情けない代物じゃねぇ。崔に勝手に勘違いされて拐かされてきたんだ!』
俺がなおも反駁すると男は俺の髪を鷲掴み、ベッドに引き倒した。そして俺の腹に馬乗りになると、下卑た笑いをその顔に浮かべた。
『黙れ!淫売め!.......俺が正体を暴いてやる!......俺のモノを咥え込んでよがっている姿を見れば頭主さまだって.....』
『止めろ!』
凄まじい力で押さえつけられ、男の獣じみた顔が近づいて覆い被さろうとしたその時だった。
『何をしている』
静かに扉が開き、崔の凍りつくような声音が男に浴びせられ....同時に、弾かれたように身体を起こした男の頭部を弾丸が撃ち抜いた。
『崔.....』
崔は今まで見たことの無い、憤怒に歪んだ顔で俺の傍らに寄ると、俺の上に被さった、息絶えた男の死体を床の上に引き摺り落とした。
『苓芳(レイファ)、大丈夫か?怖かったろう......済まなかった。悪魔が入り込んでいたとは....』
崔はその氷のような手で返り血を浴びた俺の頬を撫で上げた。
『大丈夫だ。よく分かったな...』
俺がかろうじて息を調えて答えると、崔の顔からすっ....と怒りの表情が消え、気のせいで無ければ、安堵の表情が零れた。が、それも一瞬だった。
『監視カメラがあるのでね』
崔は元の冷ややかな面に戻ると、何の関心も見せず男の死体を踏みつけて、飛び散った脳髄と血の海から俺を抱き上げ、浴室に運んだ。
『念入りに清めなければ.....』
崔がワイヤレスに向かって何か呟くと、数人の生気の無い顔をした女性が現れ、身体を洗うのを手伝ってくれた。その身体からは、異様な匂いがした。
入浴が済んで、呼ばれてきた邑妹(ユイメイ)に着替えさせてもらい、部屋に戻った時にはあの男の痕跡は跡形も無かった。
俺は崔という男が心底恐ろしくなった。
その奥底に渦巻く狂気の『愛』がこの上なく恐ろしかった。
ーミーシャ....ー
早くあの獅子の腕に引き戻されたかった。怨嗟に満ちた蛇の狂愛に締め上げられ息絶える前に、あの熱い胸に抱き締められたかった。それが儚い望みだとしても.....。
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