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第92話

 俺達が行き着いたのはバックヤードのような場所だった。  コンクリートと鉄骨の壁が長く伸びた向こうに、崔の築いた異形の世界からの出口があった。俺達は壁に背を預け、慎重に進む。息を詰め、耳と目を研ぎ澄まして、一歩ずつ外界へと近づいた。『外』の世界が、歓喜に満ちた光溢れる空間がやっと見えてきた、その時だった。  あの忌まわしい影が、その光を遮った。 「私の妻を......菩薩を何処へ連れ去るつもりだ。レヴァント、君はよくよくと仏の慈悲を無にしたいらしいな」  がらんどうの空間が、崔の凍りついた怒りの声をなお冷たく反響させ、絶対零度の緊張が、薄暗い空間を覆った。 「その言葉、そのまま返してやる」  ミハイルのスフィンクスが火を吹いた。が、崔は微動だにしなかった。   ーそうか、奴の体は.....ー  肉体の殆どが金属に覆われている。おそらくは銃弾を弾き返すほどの硬い金属を纏っているのだろう。 「ミーシャ、駄目だ。奴はサイボーグだ。頭を狙わないと...」  俺はミハイルの耳許に叫んだ。が、その視線の向こうで底闇の目がニタリと笑った。 「手遅れだよ。レディ、その男はもう死神から逃れられない」  ジリジリと崔が、生ける死神が俺達の方に、幽鬼さながらに瘴気を吐きながら近寄ってくる。その手にはブローニングのハイパワーが握られている。俺は咄嗟にミハイルを後ろに押し隠した。 「ラウル?!」 「退きなさい、レディ!」  崔とミハイルの叫びが同時に俺の耳に突き刺さった。だが、もう俺は決めていた。 「崔、お前にミーシャは殺らせない!俺がお前を地獄に送ってやる!父さんに代わって!」 「父さん......だと?!」  崔の眉がピクリと動いた。 「ラウル....そうかお前はあの男の....いや、若すぎる。あの子供は....」  崔の唇が低く呟いた。俺はマシンガンを構え直した。 「お前を地獄へ叩き返すために、生まれ変わったんだ!」 銃爪を引く...が、崔の身体がゆらりとそれをかわして、宙に舞った。着地した崔の表情はなお無表情だった。が、その目がかつてない狂気を帯びていた。 「可哀想に...そんなに父親に会いたいのか」  俺は銃爪を再び引いた。が、弾切れだった。虚空にカチカチと虚しい音が響いた。  崔の機械の指がゆっくりと俺に銃口を向けた。その時だった。 「伯嶺!」  鋭い叫びが空間を切り裂き、振り向きざまの崔の身体が横倒しに吹き飛んだ。俺達と崔の視界にショットがンを構えた邑妹(ユイメイ)の姿が目に入った。その頬を一筋の涙が伝っていた。 「邑妹(ユイメイ)!」 「もぅ終わりにしましょう.....伯嶺。姉さんが泣いてるわ....」  邑妹(ユイメイ)が銃を下ろし、こちらに歩み寄るために一歩、二歩踏み出した。と見守る俺達の目の前で、邑妹(ユイメイ)の身体が崩折れた。血あちらこちらから滲み出し、床を濡らした。 「邑妹(ユイメイ)、君まで裏切るのか」  呻くように呟いた声に振り向くと、崔がむっくりと身体を起こしかかっていた。ブローニングから硝煙がゆらゆらと立ち昇っている。 「てめぇ....!」  ミハイルが止めるより早く、俺は身を躍らせ、崔に飛びかかった。 「ラウル....!」  気づくと俺は、全体重をかけて崔にのし掛かり、邑妹(ユイメイ)の挿してくれた簪を髪から引き抜き、左の第二肋骨と第三肋骨の間、心臓に突き立てていた。弾き返す金属の感触は、無かった。   二つの眼が見開かれ俺を睨みつけ、その身体は再び地面に倒れた。....次の瞬間、俺は凄まじい力で崔に襟首を掴まれ、引き倒された。  奴は....俺の唇に口づけて、声になるかならないかの声で呟き.....目を閉じた。 「大丈夫か?ラウル!」  俺は崔の指を襟から引き剥がし、駆け寄るミハイルに叫んだ。 「ミーシャ、俺は大丈夫だ。それより.....」  ミハイルは頷き、邑妹(ユイメイ)に駆け寄り、抱き起こした。  苦し気に肩で息をしながら、それでも邑妹(ユイメイ)は俺達に微笑みかけ、囁いた。 「二人とも無事で良かった.....私の子ども達...」 「邑妹(ユイメイ)!」  ミハイルの目から涙が零れ、邑妹(ユイメイ)の頬を濡らした。 「急ごう....」  邑妹(ユイメイ)の肩を両方から支え、立ち上った。俺は動かなくなった崔を一瞬振り返り、そして背を向けた。  ふたりで邑妹(ユイメイ)を担いで光の方へと進む。バックヤードの外へ踏み出すと同時にバタバタと慌ただしい足音が近づき、イリーシャの野太い声が叫ぶのが聞こえた。 「ミハイル...!小狼(シャオラァ)....!無事か?!」 「ここだ!無事だ!」  答えるミハイルの力強い声に、俺はやっと微笑みを取り戻した。 「こちらへ、早く」  軍人らしい表情で指示を飛ばすイリーシャとその部下の背に邑妹(ユイメイ)を預け、俺達は太陽の下に走り出た。 「引き揚げるぞ」  ミハイルが片手を上げると、周囲に激しい風が巻き起こり、巨大なヘリが頭上に現れた。 「急いでください」  昇降エリアからニコライが顔を覗かせて、大きく手招きした。  俺はミハイルに抱き抱えられて、下ろされた救助ロープに掴まり、ゆっくりと地上を離れた。 「帰還します」  コックピットで、ヴォロージャがにっこり笑って親指を立てた。ニコライが俺の格好をしみじみ見て、口を少し歪めて言った。 「お似合いですね....」 「あんたは似合わねぇな、軍服」  俺が軽口を叩いている間にヘリはぐんぐん高度を上げ、俺がいた建物は豆粒のように小さくなった。周囲にはオレンジ色の花の咲き乱れる花畑と、丈の長い草の海、そして熱帯の樹木....。 「ここは.....」  呟く俺に、ミハイルが頬を寄せて言った。 「ゴールデン-トライアングル......崔の野望の温床だ。奴はここに野望の城を築いていた」  そして.....俺と父さんが暮らしていたところだ。傍らに見えるあの大きな河をオヤジは俺を連れて逃げた.....。 「迎えに来てくれて、ありがとう...」  俺は肩で大きく息をつき、ミハイルの胸にもたれた。ヤツの腕が俺を抱きしめ、熱を帯びた唇が重ねられた。 「当たり前だ。ラウル、お前は俺の観音菩薩なんだからな......」 ーやっぱり、コイツも頭沸いてる.....ー  俺は心の中で呟きながら、ミハイルを力いっぱい抱きしめた。 「指輪、壊されちまった....」  少し申し訳ない気分で、囁く俺にミハイルはー心配ないーと笑った。 「私達の絆はもっと深いところにあるからな」  まあな....心臓の真裏にあるんじゃ、絶ち切りようもない。崔がいくら名医でも手が届くわけもない。 「ところで.....」  ふと、ミハイルが怪訝そうに言った。 「崔は、最後になんて言ってたんだ...?」 「さぁ......」  俺は夕陽の中に遠ざかるアジアの秘境を遥かに眺めながら答えた。 「聞き取れなかったから、わからない」  あのオレンジの花畑の色に辺り一面が染まっていた。俺は黙ったまま、その色を見詰めていた。  崔は....いまわの際に微笑んで....嬉しそうに呟いた。 ーおかえり.....ー と。  俺は遠い昔に見た風景を思い出し、そして忘れた。

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