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第93話

 崔のアジトから救出された俺は、『演習』の終わったロシア空軍のヘリから降りた後、数日間、ヤンゴンに滞在することになった。  重症を負った邑妹(ユイメイ)が動けるようになるのを待ってから....ということもあるが、この機会に商談を進めたい....というロシア政府の意向もあるという。 「ミャンマーの軍事政権はロシア政府とレヴァント-ホールディングスの重工業部門ー軍事兵器部門にとっての上顧客でもあるのでね」    ミハイルはヤンゴンの高級ホテル、サヴォイ-ホテルのスウィートルームで、ソファに身を沈めてタリズマンを燻らせながら、言った。 「今回の崔との『戦争』はロシアの軍事兵器のいわばデモンストレーションにもなった。政府は購入の交渉がやり易くなったと喜んでいる」   「ミャンマー政府にとってはアヘンや麻薬の利益の独占を妨げる崔ファミリーの殲滅が出来ただけでなく、ロシアの軍事兵器の性能を確かめるいい機会だったということか...」  俺は窓の外に瞬く街の灯りを眺めていた。『戦争の終わり』という名のこの街で戦争の道具の売り買いが成されているというあまりに皮肉な事実に俺は大きく溜め息をついた。 「どうした?」 「この街は....香港に似てる...」  ネオンの煌めく活気溢れる街....色々な国籍の人々が行き交う雑多な文化の共存する歴史ある市街地.....ダウンタウンのざわめき....俺がこよなく愛した、あの街と同じ匂いがした。 「帰りたいのか.....?」  俺は黙って首を振った。あの街は本土に返還されて....変わってしまった。人民政府の統制はますます厳しくなり、俺の愛した自由でおおらかな空気はもう無い。何より..... ーオヤジは、もういない。ー 「そう言えば....」  ふと、気になったことがあった。 「崔の本拠地はシンガポールじゃなかったのか?」  俺が尋ねると、ミハイルは微かに眉をしかめて言った。 「あそこは『表向き』のオフィスだ。....あっちは、今、ICPO(インターポール)とシンガポールの軍が制圧してる」 「そうか....」  俺は再び窓の外に目を移した。寺院の尖塔がライトアップされて、黄金に輝いていた。その裏で数多の生命が貧困に苦しみ、犯罪に手を染めている。 「なぁ....ミーシャ、戦争ってのはいつ無くなるんだろうな.....」  『戦争』は、誰も幸せにはしない。崔も崔の婚約者も父さんもオヤジも.....みんな戦争の犠牲者だった。崔がアヘンの密造に手を染めたのも、戦争で傷ついた人々の肉体的、精神的苦痛をなんとか少しでも軽減するためのモルヒネを作るためだった....という。だが、崔の医者としての倫理は、どす黒い怒りと恨みと欲にいつしかねじ曲げられ失われてしまった。  『戦争』が崔から恋人を奪い、人間としての崔を奪っていった。 「わからん」  ミハイルが俺の肩を抱いて言った。 「だが、誰だって大切なものがある。それを奪おうとする者がいたら戦わねばならない。それが恋人なのか国家なのか....ということに過ぎない」 「でも.....」  俺はミハイルの胸に頬を押しつけた。確かな力強い鼓動が聞こえる。暖かい肌の温もりが俺を包む。 ーある日突然、この鼓動が失われたら......ー  俺もたぶん狂ってしまうかもしれない。俺はミハイルのローブの襟を握りしめていた。 「大丈夫だ....」  頭の上から穏やかな優しい声音が囁いた。 「レヴァント-ホールディングスは、いずれ兵器製造から撤退する。......今すぐには無理だが、次の世代が後継するまでに、他の企業グループに売却出来るよう、プランを立て始めている」 「ミーシャ......?!」  俺はミハイルの顔を見上げた。頼もしく力強い眼差し....俺には本当に天使のように見えた。ミハイルは、一筋、流れ落ちた俺の涙を唇で拭い、ニヤリと笑った。 「観音菩薩はすべての衆生を救うことを発願したというからな。差し当たっては.......」  逞しい腕が俺を抱き上げた。ゆったりとした足取りで花に埋もれた褥に向かう。 「哀れな凡夫の憂いを取り除いていただこうか。ん?」 「な......憂いって.......」    深いブルーグレーの瞳が俺を見つめる。深い口づけに、背中の蓮花が微かに揺らめく。 「お前の愛を確かめさせてくれ。.....ラウル」    俺は上気した顔をミハイルの首筋に埋めた。小さな声で囁いて、瞼を閉じる。 「存分に.....亲爱的(あなた)」  街の喧騒が遠くに聞こえる。変わってしまった身体と変わらない思いと......俺は俺の全てでミハイルを抱きしめる。この穏やかな時間が変わることなく、続くことを願って......。 「ミーシャ、愛してる.......」  運命は、もう変わらない。

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