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第47話
俺は洒落たオープンカフェのデッキチェアに身を収め、コークハイをオーダーした。
対岸の港の灯りが煌めいて、懐かしい時間が蘇ったような気がした。既に失われた、自由で野放図な日々に思いを馳せた。
ウェイターが歩み寄り、俺のテーブルに紅い酒の入った背の高いグラスを静かに置いた。
「あちら様からです.....」
首を巡らせると、長身で整った顔立ちの、だがひどく冷たい気配のする男がこちらを見ていた。年の頃はまだ四十には届かないくらいか。
男は、目が合うと、ツカツカとこちらに歩み寄り、目の前の椅子に座った。
「なんでしょうか、これは?」
訝る俺に、男は端正な面に冷たい笑みを浮かべて言った。
「お近づきのしるしに.....と思ったんですが、ブラッディメアリーはお気に召しませんか?」
「トマトジュースは好きじゃない.....」
眉をひそめる俺に男は低い声で囁いた。
「本物の血をお好みで?」
「俺は吸血鬼じゃない」
仏頂面の俺に、男はくくっ.....と喉を鳴らした。
「血の匂いがお好きなら、私のところにおいでなさい。ロシアの粗暴な輩よりもっといい思いをさせて差し上げますよ」
俺の中に一気に緊張が走った。
「何のことだかわらないが....あんた、何者だ?」
男は硬直する俺の手を取り、王子様よろしく指先に口づけして、ニタリと口元が笑った。
「私は、崔伯嶺。.......闇の神龍、とも呼ばれますが......」
「闇の神龍.....?」
俺は、じっと見据える双眸に腹の底から寒気がした。禍々しい光を湛えた漆黒の瞳はそのまま地獄の底闇のようだった。
ーあいつが魔王なら、こいつは死神だ.....ー
凍てついたように見つめる俺に、男は、催は優雅な、但し目だけが笑っていない微笑みを作って立ち上がった。
「お待ちしていますよ。美しいアサシン......」
俺は悠々と立ち去っていく男の背中を茫然と見ていた。
男の姿が視界から消え、懐のモバイルがけたたましく振動して、ようやく俺は我に返った。
ミハイルからの着信だった。
ーヨットハーバーに来いー
俺は弾かれたように立ち上がり、ウェイターに代金を差し出した。が、ウェイターは、実に美しい笑顔で答えた。
『先ほどのお客様にいただきました』
俺は辺りを窺いながら、ヨットハーバーへ走った。暗闇の中、一艘のクルーザーの傍らにニコライが立っていた。
「ミハイルは?」
「中におります」
俺はクルーザーの中に滑り込み、シャンパングラスを片手に悠々と座すヤツに小声で言った。
「なんでこんなところにいるんだよ!」
「お前の仕事振りを見届けにきた。.....だいぶ派手にやったようだな」
ミハイルは苦笑いしながら、俺を抱き寄せた。
「アクシデントだよ。........それよりあいつがいた」
「あいつ?」
「催だ。催伯嶺だ。.....見られてた」
「そうか」
ヤツの眉根が僅かに曇った。
「口説かれたか?」
ヤツの息が耳許に触れ、俺は一気に崩れ落ちそうになった。
「そこじゃないだろ!」
小さく叫ぶ俺の唇にヤツの唇が重なる。俺は思わずヤツの首にしがみついていた。ミハイルは、俺が落ち着くのを待ってゆっくりと唇を離すと微かに微笑み、俺を抱きしめた。
「心配はいらない。奴はまだ動かない。.....このままランデブーと洒落こもう」
「何処に行くんだ?!」
と尋ねる俺に、ニコライが操舵席から答えた。
「海南島です。荷物も引き揚げて詰んでますから、心配いりません」
「そう.....か」
ほうっ.....と息をつく。力の抜けた俺の喉にミハイルが苦笑いしながら、シャンパンを口移しで流し込み、揶揄するように耳許で囁いた。
「今回は女のところには寄れなかったな」
「仕方ないさ」
催までいるのに迂闊なことは出来ない。レイラ達の『安全』を確保するには、会ってはいけない。
ーそう、会ってはいけないんだ......ー
俺はじっとミハイルを見上げた。自分の心臓の音がやけにうるさい。
「どうした....?.......色仕掛けのお仕置きをされたいのか?」
「そうじゃない。そうじゃないけど.....」
温もりが欲しかった。催の眼差しに凍りついた心を暖めて融かしてくれるものが欲しかった。
「抱いてくれ.....」
ミハイルの眼差しが柔らかく俺を包んだように思えた。かつて無いほどの優しい抱擁に俺は身を委ねて、瞼を閉じた。
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