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第90話

「なぁ邑妹(ユイメイ)...」  俺は窓辺に凭れながら、邑妹(ユイメイ)に訊いた。あの写真の崔は、大人しげな優男に、俺には見えた。 「崔は、戦争の前....あんたの姉さんが亡くなる前はどんな男だったんだ?」  邑妹(ユイメイ)はちょっと考えて、慎重に言葉を選びながら答えた。 「伯嶺は.....姉さん....苓芳(レイファ)の許婚で、とても仲が良かった。その頃の伯嶺は一風変わってはいたけど、真面目で物静かで優しい人だった。姉さんは気が強くて男勝りだったけど、歳が離れていたから、とても可愛いがってた。他の人とはあまり上手くはいってなかったみたいだけど、姉さんとだけは睦まじかったわ」 「ふぅん.....」 「戦争が.....姉さんの死が彼を変えてしまった。ミーシャの父親、先代のレヴァントのところに会いに来た時は、一見誰だか分からないほど変わってしまっていたの」   邑妹(ユイメイ)は寂しいそうに目を伏せた。その頃の崔は、邑妹(ユイメイ)にとっても『いいお兄ちゃん』だったのだろう。戦禍に引き裂かれる前は....。俺は若い頃のミハイルを思い出した。内気ではにかみやで....優しかったミーシャ。  崔を変えたのは戦争だが、ミハイルを変えたのは、『俺』だ。  ふと首を巡らせ、俺は窓の外を見た。青い空の果てに銀色のものが小さく光った。それはとても小さかったが...俺は再び、自分が甦ってくるのを感じた。 「なぁ邑妹(ユイメイ)、頼みがあるんだが...」  俺は邑妹(ユイメイ)に言った。 「髪.....切ってくれないか?あんたがいなくなってから、誰にも切ってもらえなかったんだ」  邑妹がいなくなってから半年以上伸びっばなしだった髪はすでに肩よりも長くなっていた。 「伯嶺に聞いてみるわね.....」  席を立った邑妹(ユイメイ)は、すぐに項垂れて帰ってきた。 「駄目....だったわ。ご免なさい、小狼(シャオラァ)」 「仕方ないさ....じゃあ結ってもらえるか?邪魔にならないように」 「いいわよ」  小一時間ほどして、邑妹(ユイメイ)は、道具をひと揃いワゴンに乗せてやってきた。俺は邑妹(ユイメイ)に髪を梳いてもらい、小さくまとめてもらった。  「出来たわよ、小狼(シャオラァ)」 「ありがとう...」  邑妹(ユイメイ)が片付けに部屋を出た後、俺はおずおずとテーブルの上に残された手鏡を手に取った。陽光の中で、ブラックダイヤのピアスが久しぶりに煌めいていた。  そして......その向こうに暗く不吉な影がゆっくりと近寄ってくるのが見えた。 「綺麗だ。レディ....まさに観世音菩薩だ」     崔はいつものように音も無く歩みよると目を細めた。だが、その表情は殊のほか不機嫌そうに歪んでいた。  あの凍てつくような声が言った。 「アクシデントだ。ここを離れねばならない。.......後から迎えに来る。大人しくしておいで、レディ」  崔は俺の頬に唇を触れ、底闇の眼でじっと俺を見た。長袍を翻して、長身の背中が慌ただしく立ち去り...建物のあちこちでざわめきが漏れていた。塀の向こうから.....微かに爆音が聞こえた。  それは徐々に近づき....塀の向こうに火の手が上がった。ざわめきが一段と大きくなった。  俺は固唾を呑んで、その炎を見つめていた。  ふと......扉の外で、小さな呻き声がふたつ聞こえ、ドサッ......と何かが鈍い音をたてた。 ーまさか......ー  扉が開いた。  振り返った俺の眼に、金色の鬣が揺れて.....。 「ミーシャ!」  俺は声を圧し殺して叫んだ。   ブルーグレーの瞳が駆け寄り、俺を抱き締めた。 「待たせたな」 「遅い!......」  俺は懐かしい香りに頬を擦り寄せ、呟いた。その温もりに、半分泣きそうになっていたのは、絶対にミハイルには内緒だ。

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