22 / 33
あわれおりなすあねはこび:05
承和団地を知っているか、と、訊かれた時、ボクはどんな顔をしていただろうか。
メイシューさんの口からその名前が出てくることが意外で、ひどく動揺し、すぐに頭が混乱した。感情を整理して、飲み込んで、必要な言葉を探すことで精いっぱいで、とても自分の顔の筋肉に構っている余裕などなかった。
承和団地の事は、勿論、知っている。
住んでいたわけではないし、ボクが普段必要に応じて出かける場所や現在の住居に近いわけでもない。それでも、承和団地には、一か月に二回ほどは顔を出す生活を続けている。ボクは生きる為に、お金をもらう為に、仕事をこなす為に、承和団地に足を向ける。
ボクには、お得意様というか、定期的に依頼をしてくれる人が、一定数いる。
ひと月に一回、とある病院の隅の病室で黒い何かを飲み込んで焼却炉に吐き出す。
ふた月に一回、とある一軒家の屋根裏で虫の味がする何かを飲み込んで三百メートル先の川に吐き出す。
それはいつもの幽霊を運ぶ、という仕事だ。
ボクはテレビで見る霊能者という人たちのように、幽霊というものの声をきいたり、その無念を解読したり、そして説得したり祓ったりという事は、できない。どうしてそこにいるのか、何故そこに形を残しているのか、ボクには推測することくらいしかできない。
理由がわからないものを無理矢理に、ただ物理的に持ち運んでいるだけだ。それでも、一旦は綺麗になる。幽霊を取り除いてほしいという依頼者には、ボクは必ず、『絶対に綺麗にいなくなるわけではなくて、戻ってくることもあります』と伝える。これも、実際にやってみないとわからない。
一回運んでそのまま戻らない幽霊もいれば、何度も何度も、元居た場所に戻ってしまう幽霊もいる。ボクには区別がつかないのだけれど、きっと浮遊霊とか地縛霊とか、そういう区別があるのだろう。
綺麗にしても戻ってきてしまう幽霊に関して、依頼者は別の業者に頼むか、それともボクに定期的に頼むか、どちらかを選択する筈だ。まるでボクが仕事の為に除霊に手を抜いている、と憤るような人もたまにいるけれど、命をかけてそんな詐欺みたいなことを、するわけがない。
ボクは普通の人がボクたちに求めるような、根本的な『解決』ができない。ただ、掃除屋のようにきれいにゴミを運ぶことしかできない。定期的に汚れるなら、定期的にそのごみを移動するしかない。
そして定期的にボクが向かう場所の一つに、承和団地のD棟三〇六号室がある。
ボクはこの仕事を受ける時、珍しく数分悩んだ。自分が死にそうにないような依頼なら、ボクは大概、どんなことでも受ける。
ボクは事務所を持っているわけでもないし、サイトを運営しているわけでもないし、路上に立って営業しているわけでもない。生身の人間には、なるべく近寄りたくないからだ。
ボクのところに来るお客さんは、ほとんどが口コミや同業者からの紹介だ。世の中には不思議な職業もたくさんあって、事故物件の曰くを掃除する会社などもある。そういう業者や不動産屋なども、ボクを使ってくれる。それでもやはり、依頼件数は少ないし、大した働きもできないことは知っているので、大金を請求することもできない。
必要最低限のものだけ揃え、必要最低限の生活ができればそれでいいけれど、ボクの稼ぎは少ないから、依頼はなるべく受ける。だから、危険がなければ、悩んだりは、しないのだけれど。
承和団地、という言葉を聞くたびに、ボクは、口の中に広がる焦げた髪の毛の匂いを、思い出した。
ボクはあまり、悩まない。悩むような選択肢がある人生を、送ってこなかったから。
でもボクは、承和団地を知っているかという、メイシューさんの言葉にどうやって答えたらいいのか、本当にわからなくて言葉に詰まってしまった。口の中に、焦げた髪の毛の匂いが蘇る。苦笑いを作ってスイマセンと頭を下げる、女の人の哀しそうな顔が蘇る。
ボクは、あまり、悩まないのだけれど。
この時は本当に、人生の分かれ道に立っているかのような気分を味わった。
ともだちにシェアしよう!