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かしこみかしこみまをすばつ:プロローグ

 ガリガリガリガリ、と、音がした。  耳の上を不快な音が這いずり、背中からぶわりと悪寒が広がった。もう時計を見なくてもわかる。どうせ二時二十三分に違いない。  ガリガリガリガリ、コン、コン、ガリガリガリガリ、コン、コン……。  毎日繰り返される儀式のような異音。ドアの前に立っている何かが、扉を何かで叩き、擦る音。真っ暗な部屋にはわたしと、わたしの手を握ってくれるミケちゃんの小さな息遣いが満ちていた。  ソレが来るようになってから、わたしはほとんど眠れなくなった。  同じ部屋で生活しているミケちゃんも、当たり前のように同じ恐怖を共有している。ミケちゃんとわたしの目の下には、コンシーラーでは隠し切れないほどくっきりと隈が浮いていた。  お互いにひどい顔だね、と笑うのは、恐怖を誤魔化すためだ。生きるためだ。だってわたしたち生きなければならない。朝起きてご飯を食べて買い物をして、仕事をして。そういうあたりまえの日常をこなすためには、震え続けるわけにいかない。  きっと気のせいだよ。ちょっと変な人が入り込んじゃったのかも。オートロックマンションなのに? レディースフロアって本当なのかな……なんか角部屋の人男の人連れ込んでない? 酔っ払いかも。案外治安悪いよね。次はもうちょっとしっかりしたところに引っ越そうよ。  そんな風に言い合ううちに、なんだか過ぎ去った悪夢のように錯覚できるのだ。  現実の夜は容赦なく訪れるのに。  ガリガリガリガリ、コン、コン……ガリガリガリガリ、コン、コン……。なんだろう、この乾いた音は。なんだろう、この不気味に軽い感触の音は。  指じゃない、たぶん、爪でもない。何かを扉に充てて、上から下にずずずずずっ、と、擦るような――。 「……だめだ、らむちゃん。聴いたら、だめ」  ふ、とわたしの耳に、冷たい手が覆いかぶさる。ミケちゃんの手は昔から少し冷たい。急にくぐもった世界の音の狭間から、密やかなミケちゃんの声が聞こえる。 「こんなの、聞くもんじゃない。寝よ。寝ちゃえば朝になる。そしたらいつもとおんなじ朝だ。……どうせ、入って来れない」 「でも……でも、だって、……こわいよ、ね、こわくないの? ミケちゃん……」 「怖い。けど、どうしようもない」  そうだ、わたしたちは、ベッドの真ん中で震えることしかできない。どうしようもない。なにもできない。だってわたしもミケちゃんもただの普通の人間で、あんなものと対峙できるような能力も素質も持ち合わせていないのだから。 「…………また、頼もう。ちょっと貯金は崩れちゃうけど、あの人なら頼りになるよ」 「……え、……うん……」 「なに、嫌なの? らむちゃんは苦手?」 「だって、ちょっと怖い。見た目も、怖かったし……」 「本当に好きになる人の第一印象って、案外最悪だったりするでしょ。ほら、あたしとかさ」  すこしだけ笑う気配がする。ミケちゃんの笑った息につられて、わたしもふふ、と息を零した。確かにミケちゃんはすごく怖かった。でも今では仕事で欠かせないパートナーだし、頼りになる同居人で親友だ。 「そうだね。……うん、頼もう。怖いし、寝れないし、……このままだと、ミケちゃんのクマがアライグマみたいになっちゃう」 「お互い様だろ」  もう一度お互いに息を零しそうになった時、バン! と何かが扉を叩く音が響き、わたしたちは思わずお互いの肩を抱きしめた。  ――耐えられない。怖い。怖い。こんな夜はもう耐えられない、わたしもミケちゃんも、このままでは本当におかしくなってしまう。そう思ったから。  刈安キイロさんを呼ぼう。  わたしはそう決意したのだ。

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