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かしこみかしこみまをすばつ:03

 気が付いたら寝ていた――ということもなく、二時二十三分は予定通りに粛々と訪れた。  割合飽きずにしりとりを楽しんでいた俺は、うっかりその音を聞き逃しそうになった程だ。  ガリガリ……ガリガリ……コン、コン……。  ガリガリ……ガリガリ……コン、コン……。  ふ、とキイロが口を閉ざした時、その音は紛れ込んできた。  妙に硬くて、その割に軽い音。それは確かに、俺たちの一メートル先――玄関の先の扉から聞こえる。  人の気配はなかった。……なかった、筈だ。確かに俺は楽しくしりとりなんかしちゃってたけど、結構な小声だったし、部屋の方で女子二人が身じろぐ気配はしっかり把握できている。  時折聞こえる上の階の住人の足音。外を歩く通行人の音。それ以外は部屋の中の俺たちの気配しかなかったはずだ。  それなのに、ソレは扉一枚向こうに、唐突に湧いた。  ガリガリガリガリ、コン、コン。  ガリガリガリガリ、コン、コン。  音がする。響く。他には何も聞こえない。自分の息と、キイロが身じろぐ気配だけがかろうじて。他は何も、何も、何も。……ああ、いやこれ、あれだ。 「メイシューさん?」  腰を浮かしかけたキイロの服を掴み、全力で引き戻す。さっきまで煌々と明るかった玄関の照明が、いつのまにか消えていた。ほの暗い明りが玄関扉の上窓――欄間部分からうっすらと差す。外の街灯の明かりだろうがそんなことよりその欄間にべったりと張り付いた黒い影の方が問題だ。 「メ……」 「うっさい黙れいいから耳塞げッ……」  だめだ。これ、見ても聞いてもダメなやつだ。  背中から腕の先までびっしりと逆立った鳥肌が、耳の奥で鳴る耳鳴りが、急に三度くらい下がった気温が、全部が全力で『やばい』ってことを告げてくる。  やばい。たぶんこれ、本能だ。本能的に俺はアレがめちゃくちゃにヤバいということを感じている。  対するキイロはマジで何の変化も感じていないらしい。悠長に首をめぐらし欄間を見上げようとするもんだから、このクソボケ変態野郎たまには俺の言うことちゃんと聞け、と両手でキイロの耳を塞いで無理やり顔の向きを固定した。  ガッツリ向き合うような体勢だ。なんなら俺はちょっとキイロに乗り上げてるし、素面だったら笑えない状態だと思う。冷たい壁に背中を付けたキイロは、危機感ゼロのいつもの顔で俺を見上げる。 「……メイシューさん、あの……なにか、わかっちゃったんです、か?」 「わっかんねーよばか、つかわかったらまずい奴だろあれ、そんくらいしか俺にはわっかんねーよ……! 馬鹿だから見んなっつってんだろ! 見るな、いいか、俺だけ見てろ」 「はぁ。ええと……メイシューさんがそう仰るなら、ボクは、勿論それに従います。従います、けど、そのー……実は、本当に霊感なんてないのかもしれないんですよね、ボク。だって、全然、わからない」 「……音も? 聞こえねえの?」 「ノックをするような音はかろうじて聞こえます。けれど、欄間から何かが覗いているような気がしないでもないなぁ……、くらいのことしか、わかりません。だから、正直なところ、怖いとか、そういう感情もありません……ええと、そういうわけで、この状況にただただ、えーとそのー……ドキドキします」  キイロの手が俺の耳を塞ぐ。そっと、大切なものを慈しむって感じの、おずおずとした触れ方だった。  キイロの手はでかい。身長がでかいんだから、そら手だって比例してでかくなる。骨ばったでかい手は、俺の両耳を大切に大切に包み込むと、ゆっくりと音を遮断するために力を籠める。  俺の身体の音なのか、キイロの腕の筋肉の音なのか。ゴオオオ、と、懐かしいような地鳴りのような音がする。その奥で、静かなキイロの声がささやかに聞こえた。 「しばらく経ったら、消えるそうです。具体的に何分程度か、いまいちわからないんですが……やっぱり、ボクの胃には入ってこないみたいですね。外に出ればチャンスはあるのかもしれないけど。……メイシューさんがダメだ、と、言ってくれるのなら、ボクはここを動きません」 「うん。……うん。だめだ。だめ。仕事でも、あんなん食ったらだめだ馬鹿タコちゃんと仕事選べ見極めろ阿保」 「ええと、難しい要求……ボク、霊感ないので……実際に遭ってみないと災厄の大小はわからない……」 「ぶっつけ本番で命ムダにすんのやめろ。俺が肥えさせてもお前すぐ吐いて痩せちまうじゃんかよ」 「あ。……肥える、といえば、言おう言おう言おう、と思って、言い忘れていたことを思い出したんですけど」 「なんだよ今かよそれ今じゃないといけない話――いや、何でもいいから話せ」  その方がたぶん、音が遠くなる。  ガリガリガリガリ、コン、コン。  ガリガリガリガリ、コン、コン。  まだ聞こえる硬質な軽い音。擦る音。次いで叩く音。あーこれ……木だな。木だ。どんな形状の何かはわかんねーけど、いま扉の向こうでガリガリコンコンと音を立てているのは、乾いた木の棒だ、と気が付いてしまった。  コン、コン、…………コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン。  ……んんー。これ、気が付いちゃまずかったやつか?  狂ったようにノックをする何かを完全に無視しながら、俺とキイロは薄暗い闇の中で体を寄せ合う。いや別になにかしらの意図があったわけじゃなくて、不可抗力だ。今さらもぞもぞと体勢を整えるわけにもいかない。仕方なくキイロに乗り上げたまま、俺はキイロの耳を、キイロは俺の耳を塞いで見つめあう。 「話したいことってなんだよ」 「はい。実は先日、体重が増えました」 「…………んっ」  それ今言うかよ。嘘だろ。おまえこの体勢でよくそれ言えるな……とげんなりした俺は悪くない。  だって俺は『体重増えたらチューしてやんよ』という軽すぎる約束のことを、割合ちゃんと覚えていたからだ。 「メイシューさんは一キロ、と仰ってくださいましたけど、人間の体重って結構変動があるという話で……だから、五キロ増えるまで、と思っていて」 「え、おまえ五キロも増えてんの!? マジで!? み、見えねえどこにそんな肉ついた……」 「はぁ、ボクもそう思います……もともと身長もあるので、多少増えても見た目に変化がない、のかもしれないです。でも、本当に、そのー……ちゃんと体重は増えたので、だから、えーと……ご褒美……いただけたら、うれしいな、とか……」 「今かよ。今じゃねえだろどう考えても。なんで今言ったんだよ……」 「え。思い出したので……?」 「そういうところだよマジでーーーーーー」  だからお前はダメなんだよ刈安キイロ! いやでもそのめちゃくちゃな空気の読めなさまでちょっとカワイ……みてえに思えちまうのもダメなんだよ! 俺もお前もダメだ、全然ダメ。 「……メイシューさんの顔、えっと、……熱いです」 「おっま……お前の方こそ照れたりしやがれよ……なんで真顔なんだよ……」 「照れてます。顔に感情が乗らないんです、昔から。……照れてるし、ドキドキしてるし、そわそわしてます。……およそ、人間らしい、とされることは、ボクにとって全部初めてだから」  初めて恋をした。……俺なんかに。  初めて告白をした。……マジでなんで俺なんだ?  そんで初めてのキスを俺に求めるこいつはやっぱどうかしている、と思う。ああ、でも――耳の奥をひっかくような、あのガリガリガリガリガリガリガリという音を聞いているよりも絶対にいい。俺とキイロが自我を保って生き延びるには、これが最善だ。俺はそう思うから。 「目ぇとじろ開けたら殺す」 「……たぶん、暗くて見えないと思いますけど……」 「開けたら殺す」 「はい。…………あ、あの、メイシューさん、……近い……気が……」 「ばっかかよ近づかなきゃできねーでしょうがよ……おら、口開けろ口。元気にエロいのぶちかましたる」  こうなったら自棄だ。  初めてのチューはロマンチックに……ってガラでもねーだろう。つかそんなこと慮ってる余裕なんかない。  死なないために前だけ見る。息をするために、生き残るために頬を掴む。ムードなんか知るか。そんなもんに配慮してる場合じゃない。  ……それでもまあ、お前のこと嫌いだったらこんなことしねーからな? って囁くとき、さすがに視線は合わせられなかった。  いやでもこういうの、きちんと言わねえと、キイロは人間の機微とかそういうの一切察したりしないし、どうせ後で面倒臭くなるから――と思ったんだけど、元気にチューぶちかます前に元気にがばっと顔掴まれて一気に反撃されてしまった。 「キ…………っ、ふ、ちょ……、ふ……っ」  顔をがっちり抑え込まれて、抵抗なんかできないうちに口ごと食われるみたいなチューかまされた。  キイロの体温は低い。俺よりずっと低い。だから舌も少しだけぬるく感じて変な気分だ。  ぬるっとした温度の舌が、割とちゃんと俺の口ん中を動く。予想以上のちゃんとしたキスに、仕掛けた俺の方が挙動不審になってキイロの背中をバシバシ叩いてしまった。 「…………………いたい……」 「うるせー、おま、そんな、チュー、どこで覚え……っ」 「ボクはずっと一人で、だから、本とか映画とか、そういうものしか外とのつながりはなくて。だから、えーと、耳年増、というか……知っているだけなら、知っている、みたいな……」 「ぶっつけ本番にしちゃテクニシャンじゃねーかよこのムッツリ童貞……」 「はぁ。ええと、確かに、童貞ですけど……あれ、童貞、かな?」 「キーちゃん、それどういう……?」 「…………いえ、童貞です。うん。大丈夫」 「いや詳しく教えろなんだそれ。どういう意味――」 「あ。消えてますね」  するり、と俺の追撃をかわした体温の低い男は、よいしょと身体を起こすとさっさと扉の方に歩いて行ってしまう。止める間もなくドアを開き、右と左を確認してから外に出て、そしてささっと帰ってくる。  その手には、なんか……木の棒としか表現できない棒きれが握られていた。 「……なんぞそれ……?」 「枯れ木です。たぶん。……榊、かな」  うれし恥ずかし初キッスの余韻なんかゼロだ。つか別に『好きだよ……』みたいな感じでぶちかましたわけじゃねえし、余韻とかなくて結構だ。キイロはもうちょい照れろと思うけど。  いや、そんなことよりアレがどっか行ったことの方が百倍くらい重要だ。  いつもの気の抜けたような無表情でふらあっと戻ってきたキイロは、木の棒を握りしめたまま、廊下を突っ切ってらむちゃんたちが居るはずの六畳間の方に歩いていく。 「ちょ、ちょちょ、どこ行くのよキーちゃん……っ」 「え、らむさんのところですけど……あ、メイシューさんはこちらに居てもらっても、たぶん、大丈夫です」 「いやついていきますよこんなとこで一人にすんな。つかなんかわかったの? いまので? お前結局食ってねえじゃん!?」 「はい、食べてません。だから、運搬は不可能です、というか、失敗ですね。ボクの除霊は失敗ですけど、一応、ボクでもわかったことはお話すべきかな、と思うので」  そう言ったキイロは、さっさと部屋と廊下を繋ぐドアをほとほとと叩く。  いつの間にか戻っていた鈍い玄関灯の奥、暗い部屋から帰ってきた女子の声は、相変わらず怯えるようにひっそりと震えていた。

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