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第2話 チェスが終われば
はぐれ烏と白鳥の
世にも奇妙な縁と愛
人には言えぬ稼業と仲は
白と黒とが入り混じる
チェスの勝負にさも似たり
ユーリという新たな生き甲斐を得た純一は、殺し屋ウエスタンではなく飲み屋のオルフェさんとして過ごすつもりでいた
しかし、殺し屋は簡単にやめることはできない
定岡は閉店時間の過ぎたおるふぇ屋のカウンターで板場の純一と差し向かいになって酒を飲んでした。定岡が店を訪ねるのは決まって閉店後であった。
定岡が猪口の酒を飲み干すと、その度ユーリが酌をした。店に来て二週間になり、仕事にも日本語にもある程度慣れてきていた。
「お前の下で修行するよりホストクラブの方が儲かるんじゃねえか?」
「おかげで繁盛してるよ。それで、頼んだ物は?」
「骨折ったぜ」
定岡はそう言って封筒を純一に渡し、煙草をくわえた。すかさずユーリはライターをズボンのポケットから取り出して火をつけた。「うちの若いのより利口だな」
「何?藤田ウォルター、21歳?えらい約束と違うじゃねえか」
定岡が持ってきたのは戸籍謄本であった。純一がユーリが日本で暮らして行けるようにするために入手を頼んだのだ。だが、ユーリは21歳で通すには明らかに若すぎるし、ウォルターが本名なのに通名がユーリでは変だ。
「若いハーフの戸籍なんて簡単に手に入らねえんだから贅沢言うな。父親は空欄だしお袋はシャブの打ち過ぎで死んでる。本当のウォルターはロシアの鉱山に売り飛ばされたから絶対安心の戸籍だ。それに成人の方が何かと都合が良い」
「にしたってウォルターはねえだろ。もっと他になかったのか?」
「絵は描いて来たよ」
「どんな絵だ?」
「お前、私生児だったよな」
「親父はお袋を捨ててアメリカへ帰りやがった。顔も知らねえ」
純一の母親は横須賀の軍人向けのパンパンで、ある黒人の水兵と懇意になって純一を宿した。しかし水兵は進駐軍の引き上げと共にさっさと帰ってしまい、それ以来音信不通であった。
「そこだ。お前この子を養子にしろ」
「養子?」
純一は面食らった。ゲイが結婚代わりに養子縁組をするというのはよく聞く話だが、まさか自分とユーリがそういう仲とは定岡もまだ知らないはずだ。ユーリは何が起こっているのかよく理解できず、きょとんとしている。
「養子にするにあたって、お前の親父がウォルターって名前でお前を虐待したってことにしろ。栄田に頼めばこれで改名手続きは通るはずだ。あとは好きな名前を付けて頃合いを観て離縁しちまえ」
栄田とは定岡の組の顧問弁護士だ。純一とも旧知の仲で、何かと世話になっていた。
「流石に大学出のインテリだな」
純一は定岡の提案に満足し、約束の三百万円の入った封筒と、上等の酒一本取ってカウンターにどんと置いた。「栄ちゃんにもよろしく言っといてくれ」
定岡はしばらくユーリの酌で純一と無駄話をしながら酒を飲み、帰っていった。
それから二か月経ち、手続きは滞りなく終わり、ユーリは『葛城勇利』と正式に改名して純一の養子となった。
その夜、純一は店を少し早く閉めてユーリに初めて漢字を教えた。ユーリは表向きは知り合いの子供が板前修業に来たという名目になっていたが、名前くらいは漢字で書けないと怪しまれるというのが純一の考えだった。
「違う。線が一本多い」
カタカナがようやく一通り書けるようになったばかりのユーリにはこの四文字はいささか荷が重く、どうにか手本無しで書けるようになった時には東の空が白くなっていた。
「純一さん、できました」
チラシの裏に新しい名前を書き、ユーリは満足そうに微笑んだ。
「よくやった。頑張れよ」
難しい言葉はまだ通じないが、ユーリは勘が良いのだろう。こういう時だけは滅多に見せない笑顔を純一に見せた。
そうこうする内、ユーリはもじもじとし始める。「褒美」が欲しいのだ。こうして仕事終わりにユーリ日本語を教え、褒美がてらセックスになだれ込むのが毎夜の事であった。
「純一さん、早く」
ユーリは自分の部屋の布団に純一を誘い、たちまち服を脱いだ。聖歌隊にでも居そうな声、白磁のような肌とプラチナブロンド、宝石のような青い目が総動員で純一を惑わせる。小ぶりな肉棒が健気に屹立し、言葉を必要とせずに純一が欲しいと激しく訴える。こうなると純一もたまらずユーリを押し倒してしまうのだった。
ユーリもユーリで純一の70歳を過ぎているとは思えない黒檀のヘラクレス像のような肉体、故郷の薄汚い映画館で見たアメリカ映画に出てきた、頼もしい老下士官を思わせる強そうでそれでいて優し気な顔、30センチもあろうかという巨大な肉棒、そして何より、危険を承知で自分を受け入れてくれた優しさが好きだった。
そしてお互い男を悦ばせる術を知っていた。どこをどう責めればユーリが脳を直接揺さぶるような甘い声を出して狂うのか、どう受け止めれば純一が自分への気遣いを捨てて狂うのか、既に言葉を必要としない深みで二人は離れ難く繋がっていた。
純一は最初は乱暴に扱えば壊れてしまいそうなほど華奢なユーリを明らかに気遣いながら抱く。しかし、ユーリは幼いうちから乱暴に男達の慰み者にされてきた不幸な経験から、純一の他の男が与えてくれなかった優しさに神的充足を覚えつつも、肉体的快楽の面で満足ができなかった。
そこでユーリは経験に物を言わせて純一を狂わせる。乱れに乱れて純一が気遣いをする余裕を力づくで奪い取るのだ。最後は純一はまんまとユーリの手管にはまり、ユーリのもたらす快楽の事しか考えられなくなる。
ユーリが誘い、純一が応じる。白いユーリと黒い純一が乱れ狂い、それはセックスとチェスを同時にするのに似ていた。純一は紛れもなくユーリの庇護者であったが、その実夜はいつも後手後手なのだ。
「お父さん…」
純一に抱かれながら、不意にユーリはそう言った。純一が父親になる。今日行われた手続の意味をユーリはそう捉えていた。
「違う」
ユーリの甘美な秘穴をほぐす様に押し広げていた純一は、どこか余所余所しく答えた。当惑の表情を浮かべ、純一の肉棒が一層固くなったことをユーリは見逃さなかった。
「だって、そういうことにしたんでしょ?」
ユーリは純一の大きな背中に手を回し、耳元でささやいた「ね、お父さん」
チェックメイトだ。純一の理性のタガを壊すにはあまりに強烈過ぎた。純一はユーリの狙い通り、一頭の雄となって我を忘れてユーリを貪るのだった。
「お父さん…お父さん…」
ユーリは身も心も融けそうになりながら思うさま乱れた。純一は絶頂が近くなると入り口を激しく擦る。それに応えて目一杯締め付けてやればたちまちのうちに純一は自分に精を撃ち込んでくれる。そうして身も心も満たされて夜は終わる。
「人前でお父さんと言うなよ」
「うん、お父さん」
純一はうっとりとしたユーリに釘を刺し、抱き合いながら眠りに落ちた。純一は結婚したことがなかったが、新婚初夜はこんな気分かなとぼんやり考えた。
外国語を覚えるのには外国人と寝るのが一番早い。純一の母もそうして英語を覚えた。ユーリも純一の元に身を寄せて一か月もすると、読み書きは怪しいが一応一人で生きていけるだけの日本語を覚えた。
過去は辛い物であったらしくあまり多くを語りたがらなかったが、学校に4年は通ったというユーリは頭は良く、むしろ数字には純一より明るく、フランス語とスペイン語が少し喋れた。純一は日本語の読み書きを熱心に教え、材料の仕入れに連れていき、料理を教え、表の仕事を仕込んだ。ユーリも褒美という条件付きで熱心に覚えた。
だが、ユーリもやはり年相応に幼いところがあり、時々問題を起こした。始めて給料を渡した時には、その日のうちにそのほとんどを使って高いジーンズを三本買ってきた。純一は初めてユーリを叱って、押入れの奥に大量に眠っていた若い頃の穿き古しのジーンズを与えると、ユーリは目を輝かせた。
店の常連のロシアンパブの社長に聞くと、一昔前のロシアではジーンズは若者の憧れだったのだという。純一のアメリカ製の穿き古しは、ソ連時代には密輸して死刑になる者が居たほどの宝物だったと社長は説明した。
以来、サイズの合わないジーンズはユーリのユニフォームとなり、錦糸町の風景の一部となった。小柄な身体をぶかぶかのジーンズとスタジャンで包み、金髪をなびかせて歩く姿は純一に負けないくらい目立った。
おるふぇ屋は土日は夜の営業をしない代わりに、朝から夕方まで店を開けた。近くにある馬券売り場の客が見込めるからだ。
「オルフェさん、ありゃ何だい?」
競馬中継を眺めながらビールを飲んでいた常連客の一人が、店の奥の席を指さした。出勤前のロシアンパブのホステスの一団が飲んでいて、二人掛けの席でユーリとホステスがチェスに興じている。テーブルにはコーラの瓶が何本も並んでいる。
「旦那もやるかい?ユーリに勝てばビール一本サービス、負けたらあいつにコーラを一本」
ユーリはコーラを飲みながら駒を動かした。ホステスは悔しそうに何かロシア語で声を上げ、吸っていタバコを乱暴に灰皿でもみ消した。
「純一さん、もう一本」
ユーリの声を合図に、純一はフリーザーからコーラの瓶を取り出し、ユーリに投げつけた。綺麗に回転しながら瓶はユーリめがけて一直線に飛び、ユーリは満面の笑みでこれを取って栓を抜き、泡が噴き出すのも厭わず美味そうに飲んだ。「近頃はチェスの好きな人が噂を聞いてちょいちょい来るんですよ」
「強いのかい?」
「ビールは週に一本出るかどうかですね」
ユーリは実際強かった。学校のどの教師よりも強く、休み毎に公園に出かけては賭けチェスで貧しい家計を助けていたと寝物語に話したことがあった。よほどの腕自慢でなければ大抵の勝負は10分とかからずついた。
「お前、俺の職業分かってるのか?」
常連客は苦笑した。この男は刑事なのだ。
「旦那、あんなの捕まえてるほど日本の警察は暇じゃないでしょ。それに国公認だけど競馬も博打だ」
「まあな。あまり派手にやんなよ」
刑事はだし巻き卵を口に運び、続々と馬がゲートインしていく画面に視線を戻した。ホステスはムキになり、もう一勝負をユーリに挑もうとしていた。
最終レースが終わり、勝った客が祝い酒、負けた客がやけ酒を呷って皆帰ったのを見計らって、定岡が姿を現した。
「おう、表片付けて今日は上がっていいぞ」
ユーリはテーブルを埋める瓶の何本かをエプロンのポケットに押し込んで外に出た。ユーリのアルバイトは利益率が高かった。
「聞いたよ。真剣師(注1)やらせてるんだって?」
定岡は純一の出したビールを一息で飲み干し、リサイクルショップで買った古びたチェス盤を指さした。
「まめに働くし助かってるよ」
「昔は新宿には佃煮にするほど居たっけ」
「最近は聞かないね」
「俺やお前同様、あの稼業も時代遅れさ」
「それで、今度はどこの誰だ?」
定岡が来るときは十中八九「ウエスタン」の仕事を頼みに来る時だ。
「長崎だよ。俺の兄弟が持ってきた話だ」
定岡は仕事の仲介も請け負っていた。これが組の最大のシノギだとこぼしたこともある。
「長崎は明日は血の雨かい」
「チャイニーズマフィアが出張ってきて、ヤクは流すわ売春はやるわで手に負えんらしい」
定岡はそう言って写真を純一に渡した。集合写真に丸印が書いてある。「ボスの王鳥海って男だ。大物だぜ。お前の取り分は2000万」
「どういう手筈だ?」
「町外れの中華料理屋を隠れ蓑にカジノと売春宿をやってて、そこにいつも居るそうだ。ただ、カンフー映画みたいな取り巻きが何時も何人か一緒に居るらしい」
「ほう、俺向きだな。カウボーイ対カンフーか」
純一は不敵に笑った。
「急ぎじゃないが、まあできるだけ早く頼むよ」
定岡は半金の1000万円の風呂敷包みをカウンターにどんと置いた。
「別府や湯布院じゃちと怖いから、玉造あたりにしてくれ」
純一は金を躊躇うことなく受け取った。
話がまとまると定岡はさっさと帰っていった。純一は簡単な賄いを作って店を片付け、二階へと戻った。
ユーリはテレビで純一が集めた西部劇のビデオを見ていた。ジョン・ウェインが悪党と殴り合っている。
「お父さん、また人殺すんですか?」
純一はどきりとした。ユーリは定岡がそういう世界の人間なのに気付いていたのだ。そして純一は仕事の楽しそうなあまりユーリが居ることをすっかり忘れていた。
「いいから食え」
ちゃぶ台に賄いの乗った盆を乱暴に置き、純一はテレビを消した。
「手伝いたい」
「馬鹿!駄目だ」
「私、怖い。お父さんが死んだら私生きていけないよ」
「俺は死なない」
「人はいつか死にます」
ユーリは純一に抱き着いた。あの細い体のどこにそんな力が隠れていたのかと思うほどに強い力で。
「私、お父さんのクイーンになります。私は死んでもいいけどお父さんが死ぬのは嫌」
純一は苦悩した。ユーリを殺しの世界に引き込むのはいくら何でも気が引ける。しかし、思い起こせばユーリが自分の元へ来たのも、定岡の事を感づかれたのも、結局は自分の手抜かりだ。どんなに強がってみたところで、純一は歳を取り過ぎているのだ。「私を置いていくなら、私死にます」
ユーリはポケットからハサミを取り出した。この分だと本当に留守の間に死にかねない。
「…後戻りできないぞ」
「私に戻る場所なんてないんです」
「俺もそうだ」
純一はユーリからハサミを取り上げて投げ捨て、その場に押し倒した。その日の燃え様は並大抵ではなかった。
注釈
注1:真剣師 囲碁将棋の賭けで生計を立てる者のこと。厳密には賭けのみで生計を立てる人物を指し、他に正業を持つ者は「くすぶり」とも称される
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