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沈められた想い 10
壮吾よりもずっと年下の女の子だ。なのに、思わず甘えたくなるような温かさを持っている。色白で長い黒髪――祖母の千代とイメージが重なる。
「春井様、決して刻様から離れないでください」
「え……」
「あの、私はこのようなことを言える立場ではございません。ですが、これだけははっきり言えます。決して、刻様のお傍を離れてはいけません」
「若梅さん……」
――離れたくないよ、俺だって、久須美の傍から
それ以上何か言葉にすれば、涙が零れてしまいそうだった。だから、俯いてスープを口に運んだ。
黙々と食事を摂る壮吾の姿に、若梅は一礼をしてから、静かに部屋を出て行った。
残っていた仕事も片付けてしまい、やることがなくなった。なにかしていないと、余計なことを考えてしまうのに。
結局運んでくれた軽食はすべて平らげた。食欲があってもなくても、体力だけは落としたくなかった。
この屋敷を出て、一人で生きていく場所を探すのだ。何にせよ、腹が減っては戦が出来ぬ、だ。
「はあ……本当に、どうしたらいいんだろうな。せめてもう一人くらい、連絡取れる相手がいればいいのに」
天涯孤独で、現在親しく付き合う友人は刻以外にいない。学生時代の女友達とは、すっかり疎遠になっている。
「島ノ江さんもさ、せめて場所でも指定してくれればいいのにな」
そうだ。あの黒い一旦木綿 案件は置いといて、刻の前から消えるにしても、住んでいるマンションを解約して引っ越して、新しい住居を契約しなければならないのだ。
「せめて餞別に、新しい部屋の契約金と引越し代よこせって話だよな。大家の都合で退去する場合なんか、必要経費貰えるってのにさ」
本当に。島ノ江の立場なら、壮吾の倹しい生活を知っているはずなのに。それなのに刻の前から消えろ、二度と近づくなと言ったのだ。
よくよく考えて、背筋が寒くなった。
――島ノ江さんにとって、久須美と、久須美の家以外の人間は、どうでもいい存在なのか
恐ろしくなった。その事実を悟り、愕然とした。
刻との付き合いが始まって約十年。刻の傍らには必ず島ノ江の存在があった。常にクールで穏やかで、壮吾にも親切だった。けれど、それはすべて仕える主人のために用意された表向きの顔だったのだ。
「まじかよ……完全騙された……」
好印象の人間に十年欺かれていたなんて、人間不信に陥りそうだ。
――まさか、若梅さんは違うよな。あんなに、自愛に満ちた目を向けてくれたあの子まで
壮吾と一緒にいる刻を見て、顔を真っ赤にしていたのが可愛かった。あの姿が嘘だなんて到底思えない。
そういえば、出掛ける前に刻の様子がいつもと違っていた。
若梅を見て、完全にいつものポーカーフェイスが崩れていた。あんなレアな顔は、壮吾にしか見せないと思っていたが。
島ノ江の宣告を受けてから時間が経ち、動揺して混乱していた頭がクリアになりつつあった。だからこそ、輪郭のぼんやりしていたものが、徐々にはっきりと形を浮き上がらせていく。
若梅の真っ赤な顔。
刻の人間くさい表情。
――そうか……久須美は、俺と一緒にいるのを若梅さんに見られるのが嫌だったのか
彼女を、好きだから。
「はは……そうか、そうだったんだ……」
――久須美は若梅さんが、好きなんだ
パズルの最後のピースが、ぱちん、とはまった気がした。
壮吾の胸に押し寄せたのは、失恋の切なさよりも、刻に対する申し訳なさだった。
思わず頭を抱えた。
若梅は、壮吾と久須美の関係を知っているのだろうか。
色情霊に憑かれるから壮吾を抱いている、という理由があったとしても、よくない気がする。
若梅は刻を主人として深く慕っているから、刻が想いを打ち明ければ、彼女が受け入れるのは容易いだろう。
身分の差とか、障害はあるかもしれないが、男の壮吾よりは数倍未来がある。常に気を張っている刻だからこそ、幸せになってほしいと心から思った。
若梅なら、あの可愛い笑顔で、刻を心身共に癒してくれるだろう。
――あいつのため、とはいえ、やっぱキツいな……
壮吾は、引き攣れるように痛む胸を押さえた。しかし、今は感傷に浸っている時間はない。
現場から帰宅した刻は、きっと壮吾の身体を求めてくる。
――最後に、もう一度だけ
そう考え、すぐに首を振った。
「だめだ、顔を見たら離れがたくなっちまうだろ……」
壮吾は、己の感情を押し殺し立ち上がった。
荷物をまとめるために、淡々と動いた。
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