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壮吾、覚醒 5
――刻様、刻様……
不意に、刻の頭の中に女性の声が囁きかけてきた。
――千代さん?――
見ると、後ろにいたはずの千代が、壮吾の左肩に手を乗せていた。
千代は、大きな瞳で壮吾を優しく見つめた後、刻に微笑みかける。
――案ずることはありません、刻様――
柔らかな鈴の音のような千代の声が心地よく耳に響いた。刻は肩の力がふっと抜けるのを感じた。
どうやらさすがの刻も、緊張していたらしい。壮吾のこととなると、常に冷静沈着な自分も形無しだ。
――まったく君は、僕を驚かせる天才だな。――大丈夫なのかい? 力が弱っている状態で……――
千代は壮吾から離れ、ふわりと浮かんだ。相変わらず儚い姿だが、表情はとても穏やかで、無理をしているようには見えない。
――刀禰様は、刻様の幸せを一番に考えておいでです。きっと、そうちゃんのことも、大切にしてくださるはずです。だから私は安心して、上に行けます――
――その言葉通りなら、僕も嬉しいのだけどね――
――私も刻様と同じく、そうちゃんの幸せを願っているんです。きっと、大丈夫――
千代はそれだけ言うと、島ノ江の前をすり抜け、刀禰の座るソファーまでふわっと飛んでいった。
――刀禰様が、お二人の敵だとは思えません――
千代が起こした風を受けたのか、刀禰が「おや」と呟く。元高名な陰陽師は、その偉大な力を取り戻しつつあるのかもしれない。
また壮吾も、千代が手を置いていた左肩をしきりに気にしていた。そして、千代の身体が浮いたはずみで起きた風を感じ、刻と島ノ江の視線の動きで、何かを感じ取ったようだった。
「久須美、もしかして今の風、千代ちゃんか?」
「そうだよ、わかったかい」
「うん。さっき左肩が温かくなって、何かが近くでふわって浮いた感じがしたから」
「ああ、確かに千代さんは君の傍にいたからね」
「やっぱり、そうなんだ……」
壮吾の感覚が鋭くなってきているのは、気のせいではないだろう。
原因はこの場所か、刀禰との対面がきっかけか。いずれにせよ、本来の壮吾の隠れた力が解放されつつあるのかもしれない。
「やはり、君は只者ではないな、春井くん」
「おまえに言われたくねーよ」
ニヤリ、といった表現がぴったりの壮吾の表情が珍しくて、刻は一瞬見とれてしまった。悪そうな顔なのに自愛の満ちた雰囲気がたまらなくいい。
「ん、どうした?」
目の前の壮吾のどこにも、不安や戸惑いは感じられなかった。その澄んだ瞳の中には、凛とした強ささえ窺える。
「いや……つくづく、君は素晴らしい人だと思ってね」
「なっ……」
刻の一言で、壮吾の顔はたちまち朱に染まる。その様子に満足していると、すっと島ノ江が近づいた。
「――お二人とも、いちゃいちゃはほどほどにお願いいたします」
正面を見ると、刀禰と乗治朗が生ぬるい視線を刻に向けていた。刻はこほんと軽く咳払いをし、姿勢を正した。そして、さっと壮吾に耳打ちする。
「ほら、君が可愛い顔をするから、島ノ江に怒られた」
「お、俺がいつ可愛い顔したよ?」
小声で対抗する壮吾の手を取り、刻は刀禰の待つリビングの中央へ進んだ。
「刀禰様、お待たせいたしました」
壮吾も、ペコリと一礼した。
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