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第1章 お客様に夜の楽しみを提供するお仕事③

 遠くを走る電車の音で気がついた。はな六は工場で指導された通り、意識が戻ってもしばらく目を瞑っていた。薄い瞼を通して赤い光が目に入ってくる。どうやら夕方のようだ。  外界だけでなく、はな六自身の内側さえもがうるさく音を立てている。造りものの心臓がどくどくと奏でる鼓動や、内臓の蠢く音。それらは活動するには不要な雑音だが、人間として生きるには欠かせないものだと、整備工場で説明を受けた。  棋院に返却したクマともタヌキともつかないぽんぽこりんなボディと、この入手したばかりのボディは、スペックがかなり違っている。このボディは前のものよりも視覚が劣るかわりに、その他の感覚が鋭敏なのだ。そのため、魂をボディに移してすぐに目を覚ましてしまうと、慣れない感覚に魂が驚いてしまう。すると魂の破損防止に脳と魂魄を繋ぐ回路にロックがかかり、気絶してしまうという。気絶に至らなかったとしても、過重なストレスに苦しみ、最悪トラウマを植付けられてしまう。  はな六の場合、元のボディは既に棋院に返されているので、もう後戻りは出来ない。何がなんでもこのボディに慣れるしかないのだ。  意識のないときにも感覚器官は作動し続けているので、はな六の魂は丸一日眠っていた間に、少しずつ新しい感覚器官に慣らされていった。  瞼を透かして光が入らなくなってから、はな六は目を開けた。すぐ頭上には、無灯火の蛍光灯がぶら下がっている。目は思ったよりはよく見えるようだ。  首を左右に振り、自分の居場所を確認する。全体的に黄ばんだ古い和室。VR空間のサイトウの部屋とそっくりそのままだ。  体が重い……はな六は首から下をずっしりと覆う掛け布団をどけて、むくりと身体を起こした。一糸纏わぬ姿だった。ブルッと身震いをひとつ。布団の中はじめじめとして暑かったのに、いざ布団から出てみれば、少し寒い。 (これが、“寒い”っていう感覚なのか)  クマともタヌキともつかないぽんぽこりんなアンドロイドだった頃は、暑さ寒さとはただの数値であり、快不快とは結びついていなかった。だが今は、こんなとるに足らないほどの温度変化に煩わされている。  しばらく、座ったままぼーっとしていた。相変わらず外はざわざわと五月蝿いが、起きたら体内からの音は気にならなくなった。  ふと、声はどうなったのか気になったので、試しに声を出してみた。 「あ」  思いの外大きな声が出て、背筋がビクッと跳ねた。はな六は声を出した時に振動を感じた辺り、喉と胸に手を当ててもう一度声を出した。 「あーっ」  悪くない。以前の、犬だか猫だか人の子だかわからないキャンキャンした声よりは好ましい。  日が暮れて室内が急速に暗くなていったので、はな六は蛍光灯の中央から垂れているスイッチを引こうと手を伸ばした。だが腕はもって生まれた長さぶん以上は伸びない。仕方なく、ゆっくりと慎重に立ち上がる。新しいボディの動かし方は(はく)が記憶している。掛け布団を脇に押しやり、身体を前傾させて両手をつく。膝立ちになってから、ゆっくりと片膝ずつ上げて、敷布団に足の裏を着けた。両手で押し上げながら脚と背中を伸ばすと、身体のあちこちがベキベキと嫌な音をたてた。 「あいたたたた」  よろよろと、足もとが覚束ない。だが立ってみれば、思ったよりも蛍光灯の笠が頭に近いところにあった。レッカ・レッカ(このボディ)は顔に似合わず背丈があり、立てば蛍光灯の紐を引くのは簡単だった。  痛いという感覚も、ほぼ生まれて初めて感じるようなものだ。いつだったか一度、椅子から転落して頭を強く打って以来。クマともタヌキともつかないぽんぽこりんなボディでは、余程酷い故障をしなければ、痛みを感じることなどなかった。先月まで働いていた囲碁教室で、イタズラ者の小学生から碁石をぶつけられても足をひっかけられて転んでも、全然平気だった。それがこのボディでは、ただ立ち上がるだけで痛みを感じるとは。これじゃあクラス崩壊をさせようとする子供に立ち向かうなど到底無理、と考えてから、もう自分はプロ棋士を辞めたのだし、囲碁教室の先生でもないのだと気づいた。  整備工場の説明によれば、このボディの手足は日常生活に支障のない程度に壊れているらしい。関節部を酷使したせいで、そこを通る神経が傷んでいるという。身体のあちこちが痛むのはそのせいだろう。手足を軽く動かしてみたところ、手首と膝が少し痛むものの、違和感なく動いた。  座る時には気を弛めてストンと腰を降ろした。手足は無事だったが尻が痛かったので、乱暴な座り方はやめたほうがよさそうだ。それにしても、なんか変な感じだ。手で腿に触れてみると、べたっと貼り付く感じがした。  「あ……」  脚の間をみれば、縮れ毛の下から細長いものがにょきりと持ち上がっていた。“アンドロイドには要らないもの”すなわち“お飾り”だ。べたべたの原因はそれだった。VR空間でこのボディを見せて貰った時、“お飾り”はもっと小さく先端の皮がしわしわに寄っていた。今のお飾りは、皮が広がって内部からツルッとした物体が顔を出しかけている。ツルツルの中心に空いた小さな穴から溢れている透明の粘液。それが少し乾いてべたべたしていた。  はな六はお飾りの穴の辺りをそっと指で触った。一瞬妙な感覚がして、お飾りがピクリと跳ねた。粘液を掬った指を鼻の下に持っていき、くんくんと嗅いだ。 「んー?」  少し変な臭いがするかもしれない。ぺろりと舐めてみた。ちょっとしょっぱく、僅かに渋味があった。味覚というのも、そもそも口という器官を持つことさえ初めてのはな六には新しい感覚だが、ボディの魄に前のユーザーの経験が蓄積されているため、初めての感覚でもすんなり理解できる。  その時、階下からどすどすと一人ぶんの足音が昇ってきた。それを聴いた途端、お飾りがまたピクリと反応した。 「わ!」  先端にぷっくりと粘液の珠が膨らみ、それはつぅ……と糸を引きながらシーツに落ち、染みを作った。はな六は慌てて染みをパタパタと手で叩いて乾かそうとしたが、乾く前に部屋のドアが開いた。 「よぉ、おはよ」  声には聞き覚えがある。このダミ声は“ボディーショップ斎藤”のクラゲ店主、サイトウのものだ。だが、声の主の容姿はVR空間のクラゲとは似ても似つかなかった。  髪はチリチリに縮れ藁を寄せ集めて作った鳥の巣のようで、顔は浅黒く面長で頬が痩けている。濃い眉に、鋭くエッジの効いた鼻梁、だらんとした垂れ目の瞳は小さく、死んだ魚の目のように輝きがなかった。オレンジ色のつなぎの作業服を纏った身体は痩せぎすで、ウエストの辺りがいやにブカブカとしている。背は屈まないと鴨居に頭をぶつけそうなくらい高い。この風体、一言で言えば、胡散臭い。 「ちゃんとお目目は覚めてるかい?」 「はい、覚めました」  サイトウは室内に入ってくると、はな六のすぐ側にしゃがみ、長い手を伸ばしてはな六の顎を掴んだ。 「へぇ、やっぱ魂が入ると印象が変わるなぁ。気の強そうな顔つきになりやがって。そんな表情(かお)してたらモテねえぞ」  そしてはな六の頬を両手で挟んでつぶし、乱暴に揉んで左右に揺すった。 「俺はお前みたいなの、嫌いじゃねえけどな。いじめ甲斐があらぁ」  そう言うとサイトウははな六に顔を近付けて、ぶちゅーっと音をたててはな六の唇を吸った。 「あ……」  はな六はポカンと口を開けた。“お飾り”から粘液の粒が零れ、ぱたたっとシーツを叩いた。サイトウの視線がはな六の脚の間を向く。はな六は脚を閉じてお飾りを隠した。サイトウはどす黒く濁った目ではな六を見ると、ニヤリといやらしく笑った。  この期に及んでやっと、はな六は頼る人間を間違えたのではないかと思い始めた。サイトウとはこの一ヶ月、何度もVR空間で会ってやり取りをしたが、リアルで対面したのはこれが初めてだ。もしも最初から実際に顔を合わせて交渉をしていたとしたら、どんなにレッカ・レッカ(このボディ)が魅力的だとしても、この男からは買い物なぞしなかったのでは。 (な、何でこの人、笑ってるの?)  はな六はじっとサイトウを見詰めた。これまでなら、表情を見れば、目の前にいる人間に悪意があるかいなかは容易に見分けることが出来た。なのに今はこの男が何を考えているのか、さっぱりわからない。さっぱりわからないのに、胸の辺りが嫌な感じにざわついた。もしかしてこれが、眼の精度の違いってやつなのだろうか? 「そんなにジーッと見詰めんなよオイ、穴が空いちまうだろぉがよ」  サイトウが勢いよく腕を肩に回して抱き寄せたので、はな六はサイトウの胸にあえなく倒れ込んだ。 「腹ぁ空いたんべ? よォ」  怒鳴っている訳ではないのに、サイトウの声は雷鳴のように腹の底まで響く。はな六が顔を背けると、サイトウはよりしっかりとはな六の身体を抱き、大きくてゴツゴツした掌ではな六の手を握った。熱でもあるのかというくらい、熱い掌。熱は掌だけでなく、身体中から伝わってくる。

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