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第2章 はな六の独立宣言⑤

 心はたわいもないことでポキリと折れた。 「やだー、はな六ちゃん、どうしたのそれー!」  仕事の合間に、マサユキのマンションで待機していたときのことだ。炬燵に当たっていたはな六の背後をユユが通りかかった際にそれを見つけた。はな六は携帯端末でニュースサイトを閲覧するのに夢中になっていたが、炬燵の上に置いた端末を猫背で覗いていたせいで、うなじが露になっていたのだ。 「え、何が?」 「首のうしろ、歯形がついてるよ」 「歯形!?」  はな六は驚いて首を後ろに回したが、当然自分のうなじなんか見られるわけもない。ユユが携帯端末で写真を撮って見せてくれた。本当に、うなじには淡いピンク色に盛り上がった歯形が、綺麗な楕円形に整然と並んでいた。 「誰かに咬まれたの?」 「いやぁ……」  そんな覚えはないし、もし客とのプレイ中に咬まれたとしても、アンドロイドであるはな六の皮膚についた傷は、こんな風に勝手に治ることはない。 「あ!」  しばらく考えて、思い当たった。サイトウだ! 先日、ジュンソに引っ掻かれて出来た傷痕を応急手当キットで治してもらったとき、サイトウははな六の首の辺りにもパテを刷り込んでいた。そして……もうずいぶん前の事になるが……はな六がレッカ・レッカ(このボディ)に魂を移植して目覚めたばかりのとき、サイトウは風呂場ではな六のうなじをかぷりと咬んだのだった。その直後にはな六は、お飾りを苛められた刺激に耐えられず気を喪った。  多分そのせいで、痕が残るほど強く齧られたことに気付かなかったのだ。その痕に、サイトウはわざとはな六の肌色とは違う色のパテを埋めてミミズ腫れ風にデコレーションしたのだろう。  なんという嫌がらせ! 身体が資本の仕事をしているはな六のボディに、こんな悪戯をするなんて! はな六はすぐさまサイトウに電話をかけたが、サイトウは悪びれもせずにへらへらと言った。 『悪戯じゃあねぇよ。俺様からお前さんへの愛の証だ。御守りみちょうなもんさ。ソイツが着いてるのを見りゃあ、誰もお前さんに手出ししようとは思わねえだんべ?』 「それじゃおれの商売が上がったりじゃないかー!」  とはいえ、悪戯をされてからもう何日も経っていた。にも関わらず、客の誰からも指摘されなかったのだから、大した問題ではないのかもしれない。が、はな六の心情としてはサイトウを許すことは出来ない。はな六は怒りにぶるぶると震えたが……爆発する前に、たぶん怒りの七号目くらいの辺りで、急にストンとボルテージが下がった。 (なんかもう嫌んなった)  もういい。とにかくサイトウとはもう話し合えないし分かり合えないということはよく解った。もう“ボディーショップ斎藤”に居候するのはやめよう。  そう決めてしまったら、心は脱力感の極み状態であるのに、行動は早かった。数日後にはマサユキの事務所からそんなに遠くない所に部屋を借りることが出来た。部屋を探すにあたって、はな六は自分の足で不動産屋を複数訪ね、いくつもの物件を自分の目で見て回った。そうして、古びたアパートの一階の、六畳一間にユニットバスと簡易キッチン付きの部屋に決めた。クマともタヌキともつかないぽんぽこりんのアンドロイドからセクサロイドに生まれ変わって初めて、誰の力も借りずに自分一人で一つの案件の全てをやり遂げた。 「やったー! おれの城だー!」  実に清々しい良い気分。はな六は灰色のカーペットの敷き詰められた床に大の字に寝転んだ。カーペットはジュンソの部屋みたいな豪勢なものではないが、毛羽立った古畳よりは上等だ。ワハハと笑うと、壁の向こうから「コホン」と咳払いが聴こえて、はな六ははっと両手で口を抑えた。どうやら思ったよりも壁が薄い。サイトウの家に居候していたときのように、声のボリュームを気にせず暮らすことは出来なさそうだ。だが、ここははな六一人だけの部屋だ。棋士だった頃のはな六は、とても物静かに暮らしていたし、今だって騒音になるようなことをするつもりはないから、きっと大丈夫だ。ここには、はな六をしつこいセックスでいじめて泣かせるサイトウはいない。はな六はセックスの無理強いさえされなければ、静かなものだ。  口はつぐんだが、口の端がニヤニヤと弛むのは止められない。はな六はとうとう、自分が口だけの男ではないのを証明したのだ。 「短い間でしたが、どうもお世話になりました」  別れの時、ガレージの前ではな六は膝が痛むのをこらえつつ、サイトウに深々とお辞儀をした。顔を上げると、サイトウは「はぁ?」と状況を呑み込めていなさそうな顔をしていた。それはそうだろう。はな六は今の今まで家を出ることを黙っていたのだから。  頭を下げたまま、上目遣いにサイトウの顔色を窺った僅かな一瞬が異様に長かった。いつものように物凄い瞬発力で「何だとテメェ!?」と怒鳴ってくれれば追い立てられるように走り出せたのに、呆けたようにポカンとされると却って逃げるタイミングが掴めない。だがとうとうサイトウの眉間に不穏な感じに皺が寄り始めたので、 「さようなら!」  はな六は踵を返しつんのめりそうになりながら走り出した。元々身体のあちこちの関節が悪い上に、今は着れるだけの服を着込み背負えるだけの荷物を背中に背負っている。捕まえられないように、振り返らないで、すぐそこの曲がり角の陰に待たせてあるタクシーまで全力で走った。  人の足では追い付けない距離までタクシーが走ったとき、はな六はやっと後ろを振り返った。住み馴れかけていた、ワコーシティーの閑静な街並みが遠ざかっていった。  思い出すと、心臓のがきゅんと締めつけられるような感じがした。はな六はカーペットに頬を擦り付けるように首を横に振った。 (何はともあれ、これで元のはな六ペースだ。これからは昔どおり、誰にも煩わされずに独りで静かに暮らしていけるぞぉ)  はな六はうーんと背伸びをすると、沢山の服で真ん丸に着膨れたままうとうとと微睡み、すっかり眠り込んでしまった。  夕方、はな六はもそもそと起き出して、サイトウ家から持ち出してきた服をクローゼットに仕舞い、トイレでお飾りを扱いて玉飾りの中身をすっかり出しきってから、部屋を出た。まずは新しい自分のホームを探検しなければ。  アパートの前を通る細い道路は川に面している。深くて幅の狭い護岸コンクリートの底をチョロチョロと流れる、小さな川だ。  はな六はアパートの敷地を出て、裏路地に入り右へ向かった。川と正反対の方向へ背の低いビルの合間を歩いていくと、商店街の真ん中に出た。天井をアーケードに覆われた通りの両側は、どの店も古いし垢抜けないが、往来する人の数は多く、活気づいた雰囲気がある。  はな六は人混みの中をぶらぶら歩き、店々を見て回った。服屋や雑貨屋はパッとしない。はな六のような若い男の身に付けるようなものは陳列されていなかった。弁当屋にパン屋にお惣菜屋、それにスーパーマーケット。はな六は食べずに生きていけるが、水は飲まなければ身体の中の電熱器が乾上がって故障してしまう。水をもとめるために、はな六はスーパーに入った。  スーパーの間口はワコーシティーのスーパーよりもずっと狭く、店内も狭くてごみごみしていた。買い物客は店先に置かれた買い物籠を取って、その中に欲しい商品をどんどん放り込んでいく。はな六は水のボトルが一本欲しいだけだから、籠は取らず、腕組みをしてぶらぶら歩いた。 (このお店にはカートがないんだなぁ)  サイトウに連れられて買い出しに行ったスーパーには、出入口のところに沢山の買い物カートが整然と置かれていた。サイトウはそこから一台借りて来ると、買い物籠を載せて、押して歩いた。 「ねぇ、サイトウ。サイトウは力があるのに、何で籠を自分の手で持たないの?」 「あ? 籠を手に持つとよ、そのぶんこう横に幅を取るだろ」  サイトウは籠を手に持ってみせた。 「でよぉ、籠がちょうどガキの頭に当たる高さになるだんべ。そうすれば振り向きざまに、通りすがりのガキの頭にぶつかって、危ねぇからよ。手間でもカートを使った方がいいんだ」 「なるほど」  はな六は身長六十センチのクマともタヌキともつかないぽんぽこりんのアンドロイドだったころ、確かに、通りを歩いていてサラリーマンの手提げ鞄に頭を横薙ぎにされそうになったことが何度もあるから、サイトウのやり方はとても良いように思えた。 (雑なように見えて、結構周りのことを考えてえるんだなぁ)  はな六は感心して、真剣に野菜の品定めをしているサイトウの横顔を、しげしげと眺めた。  (そんなこともあったけど、もう二度とサイトウと夕方にお買い物をすることは、ないだろうなぁ)  狭い鮮魚コーナーに続いて狭い精肉コーナー。買い物客達はそれぞれ、サイトウがしていたように目を凝らしてじっくり品定めしている。そんな人間達の姿を、はな六は少し離れた所から、人間とは難儀なものだなぁと思いながら横目に見た。食材を選んで、料理を作って、食べて。そういう余計なことに人間は一日の中の少なくない割合の時間を費やしている。時間が勿体ないと思わないのだろうか? それにひきかえ、アンドロイドは……。はな六は、ほんの数ヶ月前の日常を思った。

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