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第2章 はな六の独立宣言⑥
クマともタヌキともつかないぽんぽこりんだった頃、この時間は何をしていたのかといえば、誰もいない教室で宿題の採点や教材作りをしていた。夕方は子供達を見て、夜は社会人向けの講座。振り返ってみれば、はな六の自由時間はそれほど多くなかった。囲碁教室の子供達が家族と夕御飯を食べている頃、人間のプロ棋士が仲間達と勉強会をしている頃、はな六は自分の時間を犠牲にして、他人のために働いていた。
ソフトドリンクのコーナーもやはり狭くて、水の種類はそんなに多くはないが、それでもいくつかの原産地の違うミネラルウォーター、フレーバー入りの水など、各種揃っている。ちょうど目の前には桃のフレーバーの入った水があった。サイトウから飲んでみたらどうだと勧められたもので、はな六はその時、要らないと首を横に振った。
「やだよ、身体じゅうが桃臭くなっちゃう」
「いいべな。可愛い匂いだろぉ?」
「ダメだよ。ほんのちょっとでも不純物が添加されていれば、水は腐るんだ。身体の中で水が腐ったら、身体中から腐敗臭がでちゃう。この身体は人間と違って、消化も代謝も出来ないからね」
レッカ・レッカ が饒舌に喋るとき、大抵それは取扱説明書に書いてあるようなことなのだが、それが話されるときはな六の意識は身体の外に追い出されてしまったように、一歩後ろに退いて、自分の口からすらすら出てくる言葉を聴くことになる。まるでこのボディははな六の魂が搭載される前から自らの意思を持っているように、時々不意に眠りから覚めたように話し始める。
「だから……んっ」
はな六は怯んだ。サイトウが不愉快そうに暗い目を眇 めてはな六を見下ろしていたからだ。
(あ、謝らないと!)
と、焦るそばから口は勝手に言葉を紡む。
「サイトウ、おれ……」
「これがいい!」
目の前にぬっと手が伸びてきて桃味の水を掴んだので、はな六はびくっと後ずさった。
「あ、すみません」
若い女性が肩口で切り揃えた髪を揺らして、はな六に会釈をし、そして連れの男が持った買い物籠に水のボトルを入れた。
「お前、これ好きだねぇ」
「うん、美味しいじゃん。ヒロは何にするの?」
「俺はこれ」
「メロンソーダか。ヒロはいいなぁ、こういうの水代りに飲んだって全然太んないんだもん」
「一口飲ませてやるよ」
「やった、ありがと」
二人はそんな会話を交わしながら、仲睦まじく肩を並べて歩いていった。
あのとき、はな六の口は勝手に動いて厚かましくもこう言った。
「サイトウ、おれ、これが欲しい!」
はな六の手はコントレックスのボトルを掴んだが、
「そういうことならそれはやめときな。硬水だからよ。お前さんにはこっちだ」
サイトウはコントレックスを棚に戻し、代わりに国産の天然水のボトルをはな六に押し付けた。ワガママを言ったのに、サイトウの機嫌はたちまち治ってしまった。
そのときのと同じ天然水をはな六は一本買ってスーパーを出て、元来た道すじを辿り、誰もいない自分の城に戻った。
独り暮しを始めて数日が経った。はな六はゴツンと額をぶつけて目を覚ました。気が付けば、クローゼットの扉に丸めた身体をぴったり寄せて寝ていた。外は薄暗く、夕方なのか、それともまだ早朝なのか。携帯端末で時計を確認すると夕方だった。
歩いて出勤しユユと顔を合わせるなり、笑われてしまった。
「どうしたの? コートがヨレヨレだよ。埃も着いてるし」
「んー、布団を被る代わりに、これ着て寝てたからかな」
「はな六ちゃん、お洋服にも休む時間が必要だよ。おうちに帰ったら脱いでハンガーに掛けてあげなきゃ。寝る時も着てたら型崩れしちゃう」
洋服の管理は引っ越すまでサイトウがしてくれていたから、分からないことだらけだ。つい昨日も、はな六はカットソーを一着、自己流で手洗いして台無しにしてしまった。何が悪かったのか教えて欲しいと、はな六はユユに事の顛末を話した。ユユは服の裏側に着いた洗濯表示の見かたや洗濯用洗剤のこと、そしてコインランドリーやクリーニング屋の利用方法などを教えてくれた。
(はぁ、人間っぽい暮らしって大変だなぁ)
だが洗濯で失敗した以外では日常生活に問題はないし、仕事も順風満帆で、毎晩最低でも四本は指名が入る。家賃の心配をしなくていいように、はな六は与えられた仕事は断らずに受けた。もうサイトウに遠慮して帰りの時間を案配する必要もない。だからはな六は今夜も仲間達が次々に上がっていくのを見送り、午前一時を過ぎても居残っていた。
今夜最後の仕事は、ある常連客の自宅への出張だ。一方通行だらけの住宅街の中にある、瀟洒なアパートの一階。ドアをノックするといつも通り返事はなく、鍵もかかっていなかった。はな六は薄く開けたドアに素早く身体を滑り込ませた。
天井の高いワンルームは、外と同じくらい冷えきっている。壁際のベッドの上の、山のように盛り上がった毛布の塊を揺さぶり、「こんばんは」と声をかけた。毛布の下から呻くような声が「お金はそこにあるから」とナイトテーブルを指差した。はな六は代金を回収し、ナカヤマに電話してプレイ開始を告げた。服を脱いで、ぶるぶる震えながらベッドに潜り込む。客はマサユキ程ではないがかなり太っていて、マサユキよりもふかふかな体毛に覆われており、本物のクマみたいだ。ふかふかな身体がはな六の身体にのし掛かってきて、すぐにセックスが始まる。最近酷使しがちな後孔は客のものを咥え込むとビリビリ痛んだ。
「あ、あぅ! いぃ……っ」
苦しんでいるのを気取られないよう、はな六は扇情的に喘いだ。少し我慢していれば、すぐに良くなってくる。始めは毛布が捲れる度に寒くて仕方なかったが、やがて身体が内側からぽかぽか温まってきた。
客が果てたあと、毛布にくるまって抱き合い、腕枕をしてもらった。
「この部屋寒いだろ」
「んー、まるで外みたいです」
客は太鼓腹を揺らして笑った。
「部屋の窓、どれもカーテンがついていないだろう。だから、空気の暖かさが窓を通して逃げていっちまうんだな」
「んー?」
なるほどそういうことだったのか。はな六の部屋もかなり寒いが、やはりカーテンをかけていない。アンドロイドは寒さで死んだりはしないからと、部屋の防寒対策は後回しにしてきた。だがこの頃本格的に朝晩が冷え込むようになってきたので、そろそろカーテンをかけるべきかもしれない。それとも布団を揃える方が先か?
(でもその前に、お尻の痛いのを何とかしないと)
商売道具がダメになってしまえば暮らしも何もないのだから。
帰りは商店街の入り口まで、ナカヤマの車で送ってもらった。闇の中で一人とぼとぼと歩いていると、裏通りを抜けた先の小川に沿った道を、乗用車がゆっくりと通り過ぎるのが見えた。ボンネットが長くて車高が低く、全体的に平たくて角張っている、その車種には見覚えがあった。
(サイトウ……?)
まさか。サイトウには引っ越し先を教えていない。こんな大都市の片隅にあるはな六の新居を、どうして見つけられるだろう。だが、サイトウは粗暴だが頭は変に良い。何かしらの手を使い、はな六の行方を突き止めたのかもしれない。はな六は急いでアパートの自分の部屋に逃げ込み、鍵をかけた。短い廊下を通り、暗くてがらんとした六畳間に入り、ホッと一息つく。室内の気温はほとんど外と変わらない。はな六はコートを脱がず、クローゼットの扉に寄り添い丸くなった。
どれくらい眠ったのか、ふいにお飾りがむずむずして目が覚めた。服の上からお飾りに手を当てると、元気よくピンと上向いている。毎晩四、五人は客を取っていても、お飾りはちっとも満足してくれない。ポケットから携帯端末機を取り出して時間を確認してみれば、寝入ってからほんの数分しか経っていない。何でこんな時間に目が覚めたのか? それはこのくらいの時間によくサイトウとセックスしていたからだ。帰宅して、シャワーを浴びて、サイトウのいびきの響く寝室の隅で丸くなって眠って……気がつけば何故かサイトウの布団の中で、既に腹の中にサイトウのものを受け入れている。気づいた途端に下腹が痛んでくる。思い出したら、お飾りが余計にじんじんした。
(なんでおれ、こんなにサイトウに振り回されているんだ?)
サイトウとはもう決別した。自分の力でお金を稼ぎ、住まいを得て、正当な方法で決別したのだ。
お飾りのむずむずが止まらない。トイレで処理しないと……と、はな六は寝返りを打って起きようとして、目を剥いた。
「あー! うぁーっ、ひぎゃーーー!!」
カーテンのない窓にベッタリと人が貼り付いている。干からびたように痩せ細った身体と真っ白い白目に囲まれた底無しの闇色をした黒目と、不気味に輝く白い歯。どう見てもサイトウだ。
「あーっ、あーあー、あーーーっ!」
その時、隣室とを隔てる壁がドンドンドンと向こう側から叩かれて、はな六はビクッと壁の方を見た。
『ウルセェな、くそっ!』
隣人が吐き捨てるように言った。
(そんな、おれはサイトウという名の不審者に驚いて悲鳴を上げただけなのに、五月蝿いだなんて!)
あまりにも理不尽! と、壁に腹を立てているほんの僅かの間に、窓の向こうのサイトウは姿を消していた。まるで最初からいなかったかのように、忽然と。耳を澄ませても、人の足音も車の走り去る音も聴こえない。恐る恐る、窓から外を見てみたが誰もいなかった。
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